ら抜き言葉に対する非難をしばらく聞いてなかったので、久しぶりに聞いて朝から不愉快になる。
と思ったら、午後に観た映画「舟を編む」の最初の方で、敬愛すべき松本先生がいきなり「ら抜き言葉」を誤った日本語と決めつけて話を展開するので、本当にむかついた。
20年ぐらい前からだろうか、日本語を壊している代表みたいに「ら抜き言葉」が非難されだしたのは。
当時、私はあっけにとられた。
「ら抜き言葉」は私が生まれたときから使っているし、おそらく広島県西部においては古来からの美しい日本語の一つとして使われてきていると信じているからだ。
決して最近使われ出した誤った日本語などではないのだ!
そのように私がひとりで怒っていると、当時私が購読していた「週刊金曜日」(1995.8.4号)に本多勝一の次のようなコラムが載った。
「ら抜き言葉」と文化庁
よく知られたことだが、中国とかローマのような古代文化が栄えたところでは、自分たちの言語を「高級」な言葉と思いこみ、他の民族の言語などは「わけのわからぬ野蛮な言葉」と規定していた。
全く同じ馬鹿げた妄想に、こともあろうに「文化庁」がとらわれているのではなかろうか。6月24日(1995年)の『朝日新聞』によれば、「来れる」「食べれる」といった「ら抜き言葉」を、文化庁は「本来は『ら』が入るのが正しい」などと「強調している」そうだ。「国語に関する世論調査」に対する論評である。
またか、と思う。3年前に総理府がやったこの種の世論調査にさいしても、文化庁は「食べれる」を「文法上誤った用法」としている。文化庁はこのようにして、ことあるごとに日本文化を破壊しているのだ。
なぜ「破壊」か。これはまさに、古代文化が栄えた地域の人々が、他民族の言葉を「野蛮」と規定した無知現象と同じことになるからである。単に東京・山の手という小地域の言葉を「標準」にして、あとを「誤り」と規定するバカバカしさ。日本全国に豊かに発達したそれぞれの日本語(「方言」というより「生活語」)は、最大限「共通語」に取り入れて表現力を高めてゆくべきなのに、「文化庁」は逆に「誤り」として消滅させようとしているのだ。これでは「文化破壊庁」であろう。
では、文化庁のモノサシに対抗して、わが故郷のモノサシで、文化庁式日本語たる「食べられる」がいかに誤っているかを論評してみよう。
信州・伊那谷の場合、「食べられる」といえば受身(まれに自発)、「食べれる」といえば可能と厳密に分けている。「食べれる」「来れる」に限らず、「れる・られる」はすべてそのように区別されて使われる。ところが文化庁式日本語だと、たとえば「ボクは見られる」と言ったら、受身か可能か区別できず、前後の文脈で考える他はない。しかし伊那弁なら「オレは見られる」だと受身だけ、「オレは見れる」だと可能だけを意味する。実に論理的日本語ではなかろうか。しかもこのように区別する論理的日本語は、日本列島のかなり広範囲におよぶ。「誤った用法」は、はたしてどちらだろうか。
と、まあこれは「文化破壊庁」の誤った日本語観に対抗したまでだから、何も伊那弁を標準語にせよなどというのではもちろんない(と言っておかないと、なにしろ誤読する人が、本紙の連載コラムも含めて多すぎるので)。
しかしこのていどのことは、文化人類学だの比較言語学だのと言い出す前に、少なくとも「文化」にたずさわる役人の常識ではなかろうか。ね、文化庁さん。
(引用ここまで) *原文の漢数字は横書きのためローマ数字にあらためて引用した(太陽)。
まあこの本多氏のコラムを読んでひそかに溜飲を下げたわけだが、残念なことに、「ら抜き言葉」は誤った日本語の代表とされたままだ。
この投稿を書いているときも、「食べれる」「来れる」と入力して変換するたびにことごとく《ら抜き表現》と一太郎から指摘され、念入りなことには、シフト+エンターで自動的に「食べられる」「来られる」と変換されるようになっている。
もう手の施しようもないといった感じだ。
私としては、会話においては「ら抜き言葉」に注意しようなどとはいっさい思わないが、書き言葉としてはときどきためらって意識的に《ら》を入れてみたりする。
ちょっとなさけない。
なお、週刊金曜日についてだが。
30年以上前から本多勝一に傾倒していた(今でも尊敬している)ので、創刊以来「週刊金曜日」を定期購読していた。
4・5年後、理由があって停止した。
引用した文章は、本多勝一の「貧困なる精神N集」(2000.9.5第1刷)に再録されているものからだ。
◆ カタバミ(カタバミ科カタバミ属) ◆
カタバミ 2013.4.19撮影 |
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