先入観や偏見を持たずにいろんな映画を見てみようと思っているので、放送日順に観ている。
今日は去年の11/17に放送された日本映画「恋空」を観た。
最初から最後まで甘ったるいシーンとくさいセリフとで埋め尽くされていた。
よくぞ耐えて最後まで観たと自分をほめてやりたい。
ただ最後の一カ所、携帯の動画で生中継しながら病院へ走るシーンは斬新でおもしろかった。
今日のテーマは映画の批評ではない。
映画の前半で、男が女の誕生日に花壇の花を抜いて渡すシーンがあった。
女はこのとき「かわいそう」と言った。
花がかわいそうという意味だ。
ここで私の心がビビーンと来た。
過去このブログで、犬の幸せ、ゾウの幸せ、老人の幸せなどと書いていたとき、次は「花の幸せ」を書こうと思っていた。
それをこのシーンで思い出したのだ。
生花は贈られてだれもが喜ぶらしい。
特に女性の喜ぶ気持ちは私など想像もできないぐらいだ。
生花店も繁盛しているかどうかは知らないが、なかなか好ましい仕事だと思われているのではないか。
私は生花が嫌いだ。
もらったら礼儀としてうれしそうな顔をするが、心はまさに「かわいそう」なのだ。
花はなぜ咲くのか。
何も人間を喜ばそうとしているわけではない。
精一杯生きて、すべての命と同じく次世代を残そうとする営みだ。
具体的には花粉を虫や鳥に運んでもらうために目立とうとしている。
そのとき受粉も同時にする。
そして実がなり種ができる。
種ができるところまで生きてこそ花の幸せがあるのではないか。
その最後の最後のところで目的を果たせず人間によって切り取られる。
「かわいそう」と思うのは当然ではないか。
「百万本の薔薇」という歌があって、加藤登紀子が歌っていた。
それにちなんでか、昔「北の国から」という倉本聰のテレビドラマの中で男が北海道のオオハンゴウソウという野草の花を1万本だか摘んで女に贈る場面があった。
いいかげんにしてほしいなと思ったものだ。
子どもが無邪気にシロツメクサを摘んで花の首飾りを作る。
子どもだからしょうがないと思う。
しかし、大人が野の花を摘んでロマンチックなんて腹立たしいだけだ。
毎年春になるとたくさんの野草が花開く。
路傍に可憐なスミレが一列に何メートルにもわたって咲く。
本当に美しいと思う。
今イメージするだけでも心が清らかになるぐらいだ。
ある日それらは雑草として根こそぎちぎられてしまう。
むごいことだ。
(ちょっとテーマがそれたかな)
ベルギー・ブリュッセルのグランプラス広場は「フラワーカーペット」で世界でもっとも美しい広場のひとつといわれる。
60万本のベゴニアの花が敷き詰められるのだが、私に言わせれば花のホロコーストだ。
60万人の人間の首が敷き詰められたら誰も美しいなどとは言わないだろう。
私は野草を愛してやまない人間だ。
日本中野草に出合う旅もしてきた。
山に登るのも主要なテーマは高山植物だ。
だが花は摘まない。
つくりをくわしく見るためとか、においをかいだり味見をしたりとか、そんな理由でも摘むのはためらわれる(ためらいながら摘んだこともあるが)。
園芸用の花ならどうだろう。
庭や鉢植えで育つ花はいいと思う。
野草も園芸種も命に変わりない。
とにかく生花が嫌いなのだ。
というよりそんな目的(贈る、飾る)で花の命を人間がうばう行為が嫌いなのだ。
「雑草」を刈らなくてはいけない場面はたくさんある。
しかたないと思う。
そのこととここでの論はまた別。
◆ 南イタリアシリーズ① オキザリス ◆
オキザリス 2012.12.26撮影 カプリ島 |
同上 |
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