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佐藤達夫がGHQ民政局で悪戦苦闘している3月5日、日本政府は朝から閣議が開かれ、そこに民政局で確定した憲法条項草案が次々と送られてくる。
その草案を閣議で審議するのだが、いろいろ問題や不満があってもそれをすぐにGHQ側に差し戻す力は日本政府にはなかった。
おまけに、GHQはこの日のうちに草案を発表したいといってくる。
いくら何でもそれは無理なので、なんとか明日に延ばせないかと申し入れ、6日発表が決定する。
この3月4日~6日(国民への新聞発表は7日)の3日間は、日本国憲法誕生においてなんとすさまじい3日間だったろう。
安倍が「(GHQの)憲法も国際法も全く素人の人たちが、たった8日間でつくり上げた代物」という言は「日米の一部の者がたった3日間でつくり上げた代物」といいかえた方がより事実に近いかもしれない。
さて、この稿はこの3日間のうち、前回触れなかったことについて書く。
「日米案翻訳戦争」で論議された各条文については、天皇条項と女性の権利についてのみ前回触れたが、当然全条項について熾烈な戦争が行われた。
だが、ここではもう触れない(くわしくは古関彰一の「日本国憲法の誕生」)。
翌日(6日)に新憲法草案をマスコミ発表することになった日本政府は、幣原総理と松本国務大臣が宮中に参内して、天皇に奏上、憲法改正についての勅語を出していただくことを奏請。
これが午後4時30分だから、「日米案翻訳戦争」が終わった直後のことだ。
勅語については次のようなケーディスの記憶がある(鈴木昭典「日本国憲法を生んだ密室の九日間」)。
「『現行憲法(明治憲法)は欽定憲法なので、国民が憲法改正を発議することはできない』と誰かが言ってきたことを覚えています。
そこで、天皇に勅語を出していただいて、国会にそういう作業を命じる、とすればよいというアイデアを出した記憶があります。
なにしろ時間がありませんでしたから」
この宮中参内時、天皇は次のように言ったという。
「今となっては仕方あるまい。
勅語(政府の作った勅語の原稿)通りでよろしい。
しかし、皇室典範改正の発議権を留保できないだろうか?
家族制度廃止についても、せめて堂上華族(元公家の家柄の華族)制度だけでも残すわけにはいかないだろうか」
これらの天皇の希望もGHQに出すことがためらわれ、それでも次の3点に絞って修正を申し出た。
①皇室財産が国有になる規定を緩和できないか。
②外国人が政治上の関係で平等になる規定は、外国人にも選挙権を与えることになるので困る。
③裁判官の定年は、憲法ではなく、法律できめることにしたい。
この申し入れは②と③は了承されたが、①の皇室問題はオープン・ディスカッションによって国会で決めるべきだと却下される。
③の裁判官の定年問題は、今国会で進行中の問題とどのような関係があるのかは勉強不足でよくわからない。
②の外国人の件は、古関の「日本国憲法の誕生」に少しくわしく書いてあるので引用したい。
以下「日本国憲法の誕生」(古関彰一)から引用(レイアウト・赤字等一部編集)
外国人の人権の削除
2月13日から数えて約20日間、日本政府は長いトンネルをくぐり抜けてどうにか政府の憲法改正草案要綱の発表へとたどりついた。
しかし要綱発表の直前、あの徹夜の折衝を終えたあと、再度、GHQ案の日本化を試みる。
それは外国人の人権保障規定についてであった。
要綱発表の前日の3月4日の真夜中、佐藤達夫は外国人の人権規定についてつぎの条文でGHQとの合意をみていた。
「凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ワズ法律ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、社会上ノ身分若ハ門閥又ハ国籍ニ依リ政治上、経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコヲナシ」。
しかし佐藤は不満であった。
右の条文から「日本国民タルト否トヲ問ワズ」と「国籍」の2カ所を削除したかった。
そこで首相官邸に帰ってまもない頃、一方で翌日の要項発表に向けて確定案の作成作業に忙しく、他方において閣議が開かれているという、まさに戦場さながらの官邸から、GHQへ電話を入れた。
直接の交渉は英語の上手な白洲が話した。
GHQ側はこの提案をあっさり受け入れ、「凡ソ人ハ法ノ下ニ平等ニシテ……社会的地位又ハ門地ニ依リ……」ということで合意ができた。
これで草案から直接外国人の人権を保障する規定はすべて消えた。少なくともこの条文に関するかぎり、GHQ案とは似ても似つかず、完全に日本化した、といえるだろう。
削除にあたり日本側がどう提案し、GHQがなぜ納得したのか、確たる資料はない。
ただしこの憲法が施行される前日(1947年5月2日)に在日朝鮮人の取り締まりを目的とした外国人登録令(最後の勅令)が出されていることを考えると、この目的から外国人の人権保障条項を削除したのではないかと考えられる。
2月13日から数えて約20日間、日本政府は長いトンネルをくぐり抜けてどうにか政府の憲法改正草案要綱の発表へとたどりついた。
しかし要綱発表の直前、あの徹夜の折衝を終えたあと、再度、GHQ案の日本化を試みる。
それは外国人の人権保障規定についてであった。
要綱発表の前日の3月4日の真夜中、佐藤達夫は外国人の人権規定についてつぎの条文でGHQとの合意をみていた。
「凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ワズ法律ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、社会上ノ身分若ハ門閥又ハ国籍ニ依リ政治上、経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコヲナシ」。
しかし佐藤は不満であった。
右の条文から「日本国民タルト否トヲ問ワズ」と「国籍」の2カ所を削除したかった。
そこで首相官邸に帰ってまもない頃、一方で翌日の要項発表に向けて確定案の作成作業に忙しく、他方において閣議が開かれているという、まさに戦場さながらの官邸から、GHQへ電話を入れた。
直接の交渉は英語の上手な白洲が話した。
GHQ側はこの提案をあっさり受け入れ、「凡ソ人ハ法ノ下ニ平等ニシテ……社会的地位又ハ門地ニ依リ……」ということで合意ができた。
これで草案から直接外国人の人権を保障する規定はすべて消えた。少なくともこの条文に関するかぎり、GHQ案とは似ても似つかず、完全に日本化した、といえるだろう。
削除にあたり日本側がどう提案し、GHQがなぜ納得したのか、確たる資料はない。
ただしこの憲法が施行される前日(1947年5月2日)に在日朝鮮人の取り締まりを目的とした外国人登録令(最後の勅令)が出されていることを考えると、この目的から外国人の人権保障条項を削除したのではないかと考えられる。
明治維新以後日本が朝鮮にしてきた非道を考えるとき、この佐藤の行動はほめられることであろうか。
古関の分析が事実であるとすれば、前回佐藤に抱いた好印象・親近感はかなり色あせたものになる。
古関がいう「完全に日本化した」とは、昨今みられるヘイトスピーチのような排外主義や外国人労働者に強いている奴隷労働などが日本化の具体なのであろうか。
ならば、「日米案翻訳戦争」において、日本側は完敗すべきではなかったか。
このあたりは私の頭では理解しかねる。
日本政府は、あまりに翻訳調な草案をそのまま発表するわけにもいかず、要綱という形で発表するための準備を進める。
3月6日は前文の字句修正、首相談話の検討などと準備に追われ、午後5時にマスコミ発表にたどり着く。
日米双方にとって、3月4日からの3日間は日本国憲法を産み出すためのまさに信じがたいほどの過酷濃密な時間であった。
五島列島シリーズ㉔ ◆ ノイバラ(バラ科バラ属)◆
ノイバラ 2018.5.7撮影 久賀島 |
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