第1ステージ 戦後すぐに日本人自身が憲法草案をつくった時期(約半年)
民間では、高野岩三郎や鈴木安蔵らの憲法研究会が作った「憲法草案要綱」が有名だ。
その他、民間だけでも10数種類の憲法案ができたらしい。
近衛文麿や佐々木惣一など、半官半民のような人たちも保身のために憲法草案を作った。
日本政府は正式に憲法問題調査委員会をつくり(GHQの要請があったからだが)、松本烝治を委員長として憲法改正案大綱をつくった。
日本政府(松本烝治が委員長の憲法問題調査会)がつくった改正案大綱を見て、こりゃあ話にならんということで、マッカーサーが三原則を示して民政局に草案をつくらせた。
安倍晋三が言う「憲法も国際法もまったく素人の人たちがたった8日間でつくり上げた代物」というのがこれだ。
第3ステージ 民政局の草案を佐藤達夫ひとりが民政局に立ち向かって奮闘した30数時間
第4ステージ 佐藤達夫とのすり合わせによってできあがった草案を日本史上初の男女平等の普通選挙によって開設された国会で審議、確定していく時期(約7カ月間)
この最後の最も長い第4ステージに入る前に、触れておかなければいけないことがある。
それは、このマッカーサーの先走った動きに対してGHQの上位にある極東委員会はどう対処したのかということ。
極東委員会は予定通り2月26日に発足している。
事務所はワシントンにあり、発足してわずか1週間目に日本で憲法改正草案要綱が発表されたことを東京からの新聞記事として知る。
極東委員会の中の憲法委員会と教育委員会の責任者だったリチャード・フィンは鈴木昭典に次のように語っている(鈴木昭典著「日本国憲法を生んだ密室の九日間」から)。
東京で日本国憲法草案が発表されたというニュースは、寝耳に水でした。極東委員会はもちろん、国務省もまったく知らされていませんでした。憲法改正は、非常に高度な占領政策ですから、当然極東委員会の仕事だと思っていました。米国政府から知らされていなかったことに対して、全員大変に怒りました。会議を開いて国務省に説明を求めましたが、彼らも説明できませんでした。三月の上旬、正確な日は忘れましたが、ハッシー中佐が持ってきた草案が届けられて、私の憲法委員会で細かく分析しました。みんな日本政府が作ったということを信用しませんでした。説明を聞かされても、<本当か?>という雰囲気でした。
このときの極東委員会とマッカーサーのあいだで起こった経緯は、ジェームス三木が「憲法はまだか」で臨場感ある描写をしている(どこまでジェームス三木の創作が入っているのかは定かではない)。
長くなるが転載する。
――ここから転載(ジェームス三木著「憲法はまだか」から)
(すべてうまくいっている)
国務省や極東委員会が、日本政府の憲法草案発表に驚き、しかもマッカーサーが、勝手に承認したことに、強い不快感を示すのは、分かりきっていた。案の定、三月十日には、国務省の意向を受けた陸軍省から、問い合わせの電報が届いた。
「極東委員会は、貴殿が日本の新憲法を承認する権限について、疑問を持つと思われる。この新憲法がGHQと関係なく、天皇と日本政府によって、早くから起草され、またその内容が、貴殿が本国より受けた指令と、一致していると認め、個人的に承認した場合は、陸軍省の見解と一致するが、思うところを、すみやかにご回答願いたい」
遠慮がちなのは、超大物将軍への気遣いだろう。マッカーサーは、待ってましたとばかり、次のように返電した。
「私は一月下旬、極東委員会の訪日団と会見し、憲法問題に関して、GHQは指令に従っていると述べ、了解を得た。新憲法草案の成否は、私の承認に関わりなく、次の総選挙によって、日本国民が判断する」
極東委員会も三月二十日、マッカーサー宛に電報を打ってきた。
「四月十日の総選挙は、時期尚早であり、反動的諸政党が、圧倒的に有利である。日本国民が、考える時間を十分に持てるよう、総選挙を延期すべきである」
日本の支配階級が、民主主義を容認せず、再び天皇を中心に、連合国への反逆を図るのではないかと、懸念を示しながら、マッカーサーの独断専行を、言外にとがめている。
マッカーサーは、長文の返電を打ち、最後をこう締めくくった。
「極東委員会の心配は無用であり、総選挙の時期を、延期する必要はない」
総選挙を延期すれば、憲法改正も遅れる。占領策が遅滞すれば、帰国が遅れ、大統領選への出馬準備ができなくなる。マッカーサーには時間がないのだ。
極東委員会のアメリカ代表であるマッコイ少将からは、書簡が届いた。
「日本の国会が、最終承認する前に、極東委員会が見解を表明する機会を、与えて戴きたい。さもなくば極東委員会は、日本の憲法を承認しない事態が生じましょう」
マッカーサーはこれを無視した。
たまりかねた極東委員会は、事情を説明できるGHQの高官を、マッカーサーの代理人として、東京からワシントンへ派遣させるよう、満場一致で可決した。また、新憲法の採択手段は、国会で行うのか、憲法議会を通すのか、国民投票によるのか、重大な関心を持っているとも通告してきた。
マッカーサーは一ヶ月近くも、これを放置した。拒絶の返書を送ったのは、総選挙が終わった五月四日であった。
マッカーサーは、極東委員会にも、国務省にも、徹底的に楯突いたのである。少しでも介入を許せば、憲法草案がGHQの作成であると、露見する恐れがあるので、内心は薄氷を踏む思いであっただろう。
だが一方では、自分の存在感を、内外に知らしめ、カリスマ性を高めるには、絶好の部隊であることも、強く意識していた。
(極東委員会も国務省も、日本の現状を、ほとんど把握していない。彼らは近い将来、そのことを思い知る)
敗戦後の日本に君臨し、思うがままに占領政策を実行してきたマッカーサーは、自分の政治手腕に、絶大な自信を持った。極東委員会も国務省も、今や邪魔者に過ぎない。言いがかりやプレッシャーを、次々に排除するのは、煩わしくもあったが、巨木を切り倒すような快感もあった。
(ここに立っているのは、次期大統領となる偉大な人物なのだ)
マッカーサーは誇り高く、鏡の中の自分に言い聞かせた。
そのマッカーサーに、やがて頼もしい助っ人が現れる。三月上旬ごろ、GHQの政治顧問として来日したケネス・コールグローブ博士は、ノースウェスタン大学政治学教授の肩書きを持ち、明治憲法や、日本の軍国主義に関する著書があった。思想的には、反共の保守主義者で、いわば国務省から、お目付役として派遣されたのである。
戦前からの知日派として知られるコールグローブは、日本の有識者や、民政局のニューディーラーたちと、意見を交換するうち、極東委員会や国務省の考えと、敗戦国日本の実情に、大きなずれがあることに気づいた。コールグローブは、ワシントンの要人に、せっせと報告書を書いた。
「日本人の多くは、この憲法案の主権在民も戦争放棄も、大歓迎している。再び反動化する心配はない。マッカーサーの方針は、間違っていない」
コールグローブの意見は、極東委員会や国務省の内部に、少しずつ浸透していく。
転載ここまで――
◆ ユウゲショウ(アカバナ科マツヨイグサ属)◆
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