マッカーサー |
「玉音放送」(8.15)からもミズーリ号艦上での降伏文書調印(9.2)からも半年もたっていない。
もう少し日本政府を説得して、せめてあと半年ぐらい待てなかったのだろうか。
ポツダム宣言履行のためには、マッカーサーだけでなく、アメリカ本国も日本の憲法改正は日本国民の自由意思によって発議し決定されるべきだと考えていたのに。
そこには、一般的にはあまり知られていない極東委員会の存在があった。
極東委員会とGHQ
連合国は、日本が1941年に起こしたいわゆる太平洋戦争以後だけでも35カ国にのぼる(Wikipediaで数えてみた)。
1945年9月2日の降伏文書には、連合国側はアメリカ、中華民国、イギリス、ソ連 、オーストラリア、カナダ 、フランス、オランダ 、ニュージーランドの9カ国が署名している。
つまり、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)とは、この連合国を代表してポツダム宣言を執行するために日本の占領政策を実施した機関だ。
決してアメリカ単独の組織ではなく、マッカーサーが天皇に代わる神になったわけでもない。
ちなみに中四国地方はイギリス連邦占領軍が担当している。
GHQは占領政策を実施する実働部隊であったが、もっと上のレベルで、言い換えればGHQを監督するような連合国の組織が極東委員会である。
極東委員会は1945年9月に設置されていたが、ほとんど名前だけの組織であったようだ。
それが、12月27日にモスクワで行われた3国外相会議(ソ連・アメリカ・イギリス)において、3国以外に中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、フィリピン、インドを加えた11カ国で構成されることが決定し、第1回会合が1946年2月26日にワシントンで開かれることになった(極東委員会の実質的な発足)。
その2月26日がマッカーサーにとってはとても大きな意味をもつ日となったのである。
つまり、その日以後は自分の活動に大きな制約がかかってくるのではないかと。
極東委員会の役割は、占領政策を決定する最高機関であり、GHQの発令する指令や措置が妥当かどうか検討するものだった。
さらには、極東委員会の決議に対しては、4大国が拒否権を持っていた。
天皇(制)を守ったマッカーサー
憲法改正問題も当然極東委員会が権限を持っていた。
ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、オランダなどは天皇の戦争責任を追及していたし、当然天皇制の存続には否定的だった。
もし憲法改正作業が極東委員会の手に委ねられることになれば、天皇制の廃止の可能性は高いだろう。
マッカーサーは天皇制をそれまでとはちがった形で存続させようとしていた(結果的には「象徴としての天皇」)。
そのためには、1日も早く憲法改正を行って、憲法上で天皇を再規定することが必要だった。
折しも1月19日、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、天皇の戦争責任は国際的な関心事になっていた。
1月21日には、オーストラリアの国連戦争犯罪委員会代表がロンドンで、天皇を戦争犯罪人として告発するよう訴えていた。
これに対してマッカーサーは本国に次のような電報を打っている。
「(もし天皇を訴追し、裁判にかければ)その恨みを晴らすための復讐が始まり、それが数世紀間にわたって繰り返されないとも限らない。そうした不測の事態に備えるためには百万の軍隊が必要となり、その軍隊を無制限に維持しなければならない、という予測も成り立ち得る。おまけに行政官も募集して、派遣してもらわなければならなくなり、その規模は数十万にも達するかもしれない」
マッカーサーの心配は杞憂に過ぎないのか、私にはわからない。
ただ、マッカーサーが本気で天皇制を残そうとしていたことは事実だ。
そこでマッカーサーは非常手段をとる。
極東委員会発足の2月26日までに憲法改正草案を作ってしまうというある種の脱法行為だ。
既成事実をつくってしまおうということだ。
すべては極秘のうちにすすめられた。
マッカーサーが民政局に憲法草案を作成するように命じたのが2月3日で、期限は1週間。
これが安倍のいう「憲法も国際法も全く素人の人たちが、たった8日間でつくり上げた代物」ということになる。
安倍はわかっているのだろうか。
「たった8日間」で作り上げねばならなかった理由が。
このことで天皇は戦犯容疑者を免れ、天皇制が維持されたということを。
もちろんこのように断定することはできないにしても、少なくともマッカーサーは本気で天皇制擁護のために脱法行為のようなことまでしてこのスケジュールを強行したのだ。
以上のことは、吉田茂元首相も1957年12月の憲法調査会に提出したの次のような書簡ではっきり言っている。
「元帥(マッカーサー)としては、極東委員会が発足すれば、ただちに日本の憲法問題を採りあげることは必至であり、その結果はソ連や豪州側の意向からすれば、天皇の地位はどのようなことになるかわからない。そこで先手を打って、既成事実を作ってしまおうという決意をしたものと思われるのであります」
ちなみに中四国地方はイギリス連邦占領軍が担当している。
GHQは占領政策を実施する実働部隊であったが、もっと上のレベルで、言い換えればGHQを監督するような連合国の組織が極東委員会である。
極東委員会は1945年9月に設置されていたが、ほとんど名前だけの組織であったようだ。
それが、12月27日にモスクワで行われた3国外相会議(ソ連・アメリカ・イギリス)において、3国以外に中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、フィリピン、インドを加えた11カ国で構成されることが決定し、第1回会合が1946年2月26日にワシントンで開かれることになった(極東委員会の実質的な発足)。
その2月26日がマッカーサーにとってはとても大きな意味をもつ日となったのである。
つまり、その日以後は自分の活動に大きな制約がかかってくるのではないかと。
極東委員会の役割は、占領政策を決定する最高機関であり、GHQの発令する指令や措置が妥当かどうか検討するものだった。
さらには、極東委員会の決議に対しては、4大国が拒否権を持っていた。
天皇(制)を守ったマッカーサー
1946年 毎日新聞? |
ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、オランダなどは天皇の戦争責任を追及していたし、当然天皇制の存続には否定的だった。
もし憲法改正作業が極東委員会の手に委ねられることになれば、天皇制の廃止の可能性は高いだろう。
マッカーサーは天皇制をそれまでとはちがった形で存続させようとしていた(結果的には「象徴としての天皇」)。
そのためには、1日も早く憲法改正を行って、憲法上で天皇を再規定することが必要だった。
折しも1月19日、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、天皇の戦争責任は国際的な関心事になっていた。
1月21日には、オーストラリアの国連戦争犯罪委員会代表がロンドンで、天皇を戦争犯罪人として告発するよう訴えていた。
これに対してマッカーサーは本国に次のような電報を打っている。
「(もし天皇を訴追し、裁判にかければ)その恨みを晴らすための復讐が始まり、それが数世紀間にわたって繰り返されないとも限らない。そうした不測の事態に備えるためには百万の軍隊が必要となり、その軍隊を無制限に維持しなければならない、という予測も成り立ち得る。おまけに行政官も募集して、派遣してもらわなければならなくなり、その規模は数十万にも達するかもしれない」
マッカーサーの心配は杞憂に過ぎないのか、私にはわからない。
ただ、マッカーサーが本気で天皇制を残そうとしていたことは事実だ。
そこでマッカーサーは非常手段をとる。
極東委員会発足の2月26日までに憲法改正草案を作ってしまうというある種の脱法行為だ。
既成事実をつくってしまおうということだ。
すべては極秘のうちにすすめられた。
マッカーサーが民政局に憲法草案を作成するように命じたのが2月3日で、期限は1週間。
これが安倍のいう「憲法も国際法も全く素人の人たちが、たった8日間でつくり上げた代物」ということになる。
安倍はわかっているのだろうか。
「たった8日間」で作り上げねばならなかった理由が。
このことで天皇は戦犯容疑者を免れ、天皇制が維持されたということを。
もちろんこのように断定することはできないにしても、少なくともマッカーサーは本気で天皇制擁護のために脱法行為のようなことまでしてこのスケジュールを強行したのだ。
毎日新聞 2015.5.4付 |
「元帥(マッカーサー)としては、極東委員会が発足すれば、ただちに日本の憲法問題を採りあげることは必至であり、その結果はソ連や豪州側の意向からすれば、天皇の地位はどのようなことになるかわからない。そこで先手を打って、既成事実を作ってしまおうという決意をしたものと思われるのであります」
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