角川文庫 |
2月13日にGHQ案を受け取った日本側は、大きなショックの中で右往左往する。
20日までに返答せよというGHQの要請を受けて、19日にやっと閣議が開かれ、ほとんどの閣僚はここで初めて事実経過を知らされる。
ところで、1996年にNHKが憲法公布50周年を記念して「憲法はまだか」というテレビドラマを作った。
脚本はジェームス三木で、放送文化基金賞優秀賞を受賞している。
私はどういうわけかこのドラマを見ていない。
後にジェームス三木が同名の小説を発表してそれを読んでこのドラマのことも知った。
「新憲法制定時の経緯については、日米のすぐれた学者の研究書が、たくさん出ている。浅学非才の筆者が、この小説を書けたのは、それらの研究書があるからだ。
限りなくドキュメンタリーに近い小説と言っていいだろう。
そして、ジェームス三木の小説だけあっておもしろい。
おもしろくて知的探究心も満足させてくれる。
今回は、GHQ案を手にした日本側がそれをどのように受け止めたのかを、この小説の一場面を借りてしるすことにする。
ジェームス三木 作「憲法はまだか」から
作業は急を要した。だが憲法問題調査委員会は、すでに解散している。改めて精鋭スタッフを、組織しなければならない。松本の頭には、すぐ宮沢俊義が浮かんだ。宮沢なら頼りになる。松本は三辺秘書に命じて、東大の宮沢教授に、GHQ案を届けさせた。
大臣室に招かれた宮沢は、何かしら居心地が悪そうだった。
「GHQのナニはどうでしたか」
「なかなかエキゾチックな内容ですね」
「気の重い話ですよ。あれをベースに考え直せっていうんですからな」
「・・・・・・・・・」
「イガ栗をですよ、皮をむかないまま、飲み込めっていわれてもね」
松本は笑って見せた。宮沢の意見を何度も退け、ほとんど独裁的に起草した草案を、いとも簡単に、ひっくり返されたのだから、決まりが悪かったのだろう。
「しかしこうなったら、閣議決定に従うほかはありません。態勢を立て直して、イガを取り除く作業をしなければなりません。宮沢教授にわざわざお越し戴いたのは、そのお願いのためでして――」
松本は低姿勢であった。宮沢はきっぱりといった。
「せっかくですが、辞退させて戴きます」
「まあ、そうおっしゃらずに――」
「GHQの案はよくできていますよ。あのままでいいじゃありませんか」
「はっはっは、皮肉ですか?」
「いいえ、皮肉ではありません。私は一読して感動しました。目からウロコが落ちる思いでした」
「目からウロコが落ちるって、あれは民政局のシロウトが作ったんですよ」
「そうでしょうね。憲法学者には、とても思いつかない条文です」
「宮沢さん――」
松本の反論をさえぎるように、宮沢は言葉を重ねた。
「正直にいいますと、私は学者の限界を感じました。もともと法律家というものは、保守的な考え方しか、できないものだと、思い知らされました」
松本は不機嫌に黙り込んだ。宮沢は遠慮しなかった。
「失礼ですが、調査委員会のメンバーは、大臣をはじめ、明治憲法しか、頭にありませんでした。明治憲法を改正するという固定観念に支配されていました。それがそもそもの間違いだったんです。高木教授がおっしゃったように、もっと早くGHQの真意を、確かめておくべきでしたね」
「私を批判しているんですか?」
「自分自身を批判しているんです」
「すると何かね、宮沢さんはアメリカの押しつける憲法を、すんなり容認しろというのかね?」
「押しつけとはいえないでしょう。我々はナショナリズムにこだわりましたが、あの憲法案は、インターナショナルですよ。国家という概念を飛び越えて、人類の理想が示されています。戦争を放棄して、平和国家を建設するという、空前絶後の条文には、心を洗われました」
「宮沢君は、いつから理想主義者になったんだ」
松本は怒気をあらわにした。
「憲法は国家経営の基本法です。歯の浮くような絵空事を並べ立てても、現実の政治には対処できません。インフレの対策には、物価統制令も必要だし、預貯金を封鎖して、新円を発行することも必要なんだ」
「それは別の問題でしょう」
「別の問題?」
「分かった! 君には頼みません」
松本は憤然と立ち上がった。
宮沢はワンマン松本に、意趣返しをしたわけではない。思うところを、率直に述べたのである。調査委員会の作業を終えた宮沢は、東大総長南原繁の提唱によって、二月十四日に発足した「東京大学憲法研究委員会」の委員長に選ばれていた。委員は法学部、文学部、経済学部の教授、助教授ら二十人、特別委員には、高木八尺、末広厳太郎、和辻哲郎ら六人が名を連ねている。
そこへGHQ案が、飛び込んできたのである。憲法学の第一人者である宮沢は、崇高な平和理念に、魂をギュッと鷲づかみにされた。まさに青天の霹靂であった。やがて宮沢の中では、地滑り的な革命が起きる。
作業は急を要した。だが憲法問題調査委員会は、すでに解散している。改めて精鋭スタッフを、組織しなければならない。松本の頭には、すぐ宮沢俊義が浮かんだ。宮沢なら頼りになる。松本は三辺秘書に命じて、東大の宮沢教授に、GHQ案を届けさせた。
大臣室に招かれた宮沢は、何かしら居心地が悪そうだった。
「GHQのナニはどうでしたか」
「なかなかエキゾチックな内容ですね」
「気の重い話ですよ。あれをベースに考え直せっていうんですからな」
「・・・・・・・・・」
「イガ栗をですよ、皮をむかないまま、飲み込めっていわれてもね」
松本は笑って見せた。宮沢の意見を何度も退け、ほとんど独裁的に起草した草案を、いとも簡単に、ひっくり返されたのだから、決まりが悪かったのだろう。
「しかしこうなったら、閣議決定に従うほかはありません。態勢を立て直して、イガを取り除く作業をしなければなりません。宮沢教授にわざわざお越し戴いたのは、そのお願いのためでして――」
松本は低姿勢であった。宮沢はきっぱりといった。
「せっかくですが、辞退させて戴きます」
「まあ、そうおっしゃらずに――」
「GHQの案はよくできていますよ。あのままでいいじゃありませんか」
「はっはっは、皮肉ですか?」
「いいえ、皮肉ではありません。私は一読して感動しました。目からウロコが落ちる思いでした」
「目からウロコが落ちるって、あれは民政局のシロウトが作ったんですよ」
「そうでしょうね。憲法学者には、とても思いつかない条文です」
「宮沢さん――」
松本の反論をさえぎるように、宮沢は言葉を重ねた。
「正直にいいますと、私は学者の限界を感じました。もともと法律家というものは、保守的な考え方しか、できないものだと、思い知らされました」
松本は不機嫌に黙り込んだ。宮沢は遠慮しなかった。
「失礼ですが、調査委員会のメンバーは、大臣をはじめ、明治憲法しか、頭にありませんでした。明治憲法を改正するという固定観念に支配されていました。それがそもそもの間違いだったんです。高木教授がおっしゃったように、もっと早くGHQの真意を、確かめておくべきでしたね」
「私を批判しているんですか?」
「自分自身を批判しているんです」
「すると何かね、宮沢さんはアメリカの押しつける憲法を、すんなり容認しろというのかね?」
「押しつけとはいえないでしょう。我々はナショナリズムにこだわりましたが、あの憲法案は、インターナショナルですよ。国家という概念を飛び越えて、人類の理想が示されています。戦争を放棄して、平和国家を建設するという、空前絶後の条文には、心を洗われました」
「宮沢君は、いつから理想主義者になったんだ」
松本は怒気をあらわにした。
「憲法は国家経営の基本法です。歯の浮くような絵空事を並べ立てても、現実の政治には対処できません。インフレの対策には、物価統制令も必要だし、預貯金を封鎖して、新円を発行することも必要なんだ」
「それは別の問題でしょう」
「別の問題?」
「分かった! 君には頼みません」
松本は憤然と立ち上がった。
宮沢はワンマン松本に、意趣返しをしたわけではない。思うところを、率直に述べたのである。調査委員会の作業を終えた宮沢は、東大総長南原繁の提唱によって、二月十四日に発足した「東京大学憲法研究委員会」の委員長に選ばれていた。委員は法学部、文学部、経済学部の教授、助教授ら二十人、特別委員には、高木八尺、末広厳太郎、和辻哲郎ら六人が名を連ねている。
そこへGHQ案が、飛び込んできたのである。憲法学の第一人者である宮沢は、崇高な平和理念に、魂をギュッと鷲づかみにされた。まさに青天の霹靂であった。やがて宮沢の中では、地滑り的な革命が起きる。
この松本蒸治と宮沢俊義の会話はもちろんジェームス三木の創作だ(と思っている)。
「記録の隙間から、人間として立ち上がらせ、心臓に鼓動を与え、呼吸をさせ、感情と性格を蘇らせたい」という作家の真骨頂だ。
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