2020年5月12日火曜日

ドイツ降伏75年式典 大統領演説から見える彼我のちがい

現シュタインマイヤー大統領 ドイツ総領事館HPから













ドイツの戦争責任の取り方は徹底している。
日本とは対極であり、ことあるごとに比較される。

1985年にドイツ連邦議会でヴァイツゼッカー大統領が演説した「荒れ野の40年」の中の

過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる
赤旗 2018.9.24付

という一節はあまりに有名だ。

もっとも、この一節は一人歩きしている面もあるようだが。

ドイツでは次のようなナチス礼讃の行為は刑法130条の民衆煽動罪に問われる。

「ハイル・ヒトラー」と手を挙げるナチ式敬礼をする。
ナチスのシンボルであるカギ十字(ハーケンクロイツ)を掲げる。

また、ナチズムの戦争犯罪に時効はないので、右記事のように、90歳を超えても逮捕され、その罪を問われることになる。

毎年のように、世界中でナチスの戦争責任を問う文学や映画が山のように作られ、ドイツ自身もそれらの作品に主体的に関与し、また独自に創作もしている。

ふり返って日本を見れば、A級戦犯容疑者が首相になる。
その孫がまた首相になり、「従軍慰安婦」に反省と謝罪を表明した河野談話や、侵略戦争と朝鮮植民地支配への反省と謝罪を述べた村山談話を目の敵にし、おじいさんの遺志を継いで日本を戦前の暗黒時代を戻そうとしている(美しい日本を取り戻そうと言っている!?)。

作られる映画はほとんど戦争を美化するものばかり。
せっかく外国が作ってくれた日本軍の蛮行を告発する映画はまず日本で上映されることはない。

ドイツのメルケル首相は昨年末、アウシュビッツを初訪問し、「われわれは罪を記憶し続ける責務を負っている」と話した。

赤旗 2019.12.8付 レイアウト一部編集、写真はカラーに付け替え
ワイツゼッカーやシュタインマイヤーは大統領だ。
アメリカや韓国、ロシアなどの大統領は政治上の実質的トップだが、ドイツの大統領はそれとはちがう。
ドイツでは、政治権力は日本と同じく首相が握り、名目上のリーダーとして大統領がいる。
国家元首として外交儀式を行い、条約を締結し、首相・外交官を任命し、法律に署名するなどの仕事をする。
国民の直接選挙で選ばれるわけではなく、国会議員や州議会議員による選挙で選ばれ、品位と教養のある人が選ばれる。

世襲制である日本の天皇とは単純には比較できないが、役割的にはよく似ている。

さて、冒頭の写真や今回の投稿タイトルのことだ。
赤旗 2020.05.10付 レイアウト・赤線は編集 写真はカラーに付け替え
私たちが(ナチスの)過去から解放されることはない。
思い出すことを怠れば未来を失う。

ヴァイツゼッカーの「過去に目を閉ざすものは、現在に対してもやはり盲目となる」に通ずる。

責任を受け入れるからこそ世界の人々から再び信頼され、私たち自身もドイツを信頼できる。

今ドイツがEUの中で不動の地位を占め、EUのみならず世界中から信頼を得ているのはこういうことなのだ。
また、ドイツ自身もそのことに誇りを持っている。

責任を認めることは恥ではない。
否定することこそが恥なのだ。

もう日本とはあまりにも真逆なリーダーの思想ではないか。
日本では、責任を認めることは自虐(恥)であり、否定することこそが誇りある日本人だという。

その結果、いつまでたっても日本はアジアから信頼されず、世界中から軽蔑され、笑いものになっている。

1970年12月7日、ドイツの首相ブラントは、ワルシャワを訪れ、ポーランドとの国交正常化基本条約に調印。
その足でゲットー英雄記念碑に献花し、ひざまずいて黙祷を捧げた。

ゲットー英雄記念碑前での跪座 (「ドイツニュースダイジェスト」から)

ゲットー記念広場はワルシャワの旧市街からほど近い。
かつてこの地区には、ナチス・ドイツが同市のユダヤ人を強制移住させた居住区(Ghetto)があった。
1940年11月の時点で囲い込まれたユダヤ人住民は約40万人。
その多くが劣悪な食糧事情と衛生状態のために病死し、42年以降は強制収容所へと送られた。
それが死を意味することに気付いた住民が43年4月に武装蜂起し、1カ月間血まみれになって戦い惨敗。
ゲットーはほぼ空になった。

その蜂起の様子が刻まれている英雄記念碑の前に、西ドイツの代表団は並んでいた。
花輪がモニュメントの手前に捧げられ、ブラント首相が進み出て花輪から下がる2本のリボンの位置を調整する。
英雄記念碑の前でひざまずくブラント首相
西洋の献花式で代表者が行う行為である。
そして数歩後ろに下がり、頭を垂れて数秒。
突然ひざまずき、両手を組んで黙祷を始めた。
カメラのフラッシュが炸裂する。
西ドイツ代表団は呆然と首相の姿を見つめていた。

この「跪座(きざ)」は計画的だったのだろうか。
当夜ブラントは、首相府長官エゴン・バール(SPD)からの質問に「立っているだけでは十分ではないとふっと感じたんだ」と説明したという。

日本の首相または天皇が、中国で、朝鮮で、東南アジアの国々で、また国内の終戦記念日などで、ドイツの首相や大統領と同じような言動ができるだろうか。
想像することすらできない。
そこが日本の決定的な弱点だ。

5年も前に「メルケルの前で際立つ安倍の卑小さ その1(原発)」という投稿をした。
このときは「その2(歴史認識)」を書くつもりでいたのだが、そのままにしていて気になっていた。
やや焦点はぼけているが、今回の投稿はそのときの宿題を果たすつもりもあった。

最後に、シュタインマイヤーの演説全文はドイツ総領事館HPで読めるのだが、ここでも全文転載しておく。

ナチスからの解放と欧州における第二次世界大戦終戦75周年
シュタインマイヤー大統領スピーチ

戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ連邦共和国中央追悼施設(ノイエ・ヴァッヘ)にて

2020年5月8日 於ベルリン

国民の皆様、欧州の友人の皆様、世界中の友好国、同盟国の皆様

75年前の本日、欧州において第二次世界大戦が終結しました。

1945年5月8日、ナチスの暴力支配が終焉し、空爆の夜と死の行進が終焉し、ドイツによる比類のない犯罪と文明の断絶であるショアーが終焉しました。ここベルリンにおいて、絶滅戦争は考案され、勃発し、巨大な破壊力を持って再び戻ってきました。そのベルリンにおいて、私たちは本日、ともに記憶を呼び起こしたいと考えていました。

多大な犠牲のもと、欧州を解放した東西双方の連合国関係者とともに、記憶を呼び起こしたいと考えていました。ドイツ占領下で苦しみながら、それでも和解の意思を示してくれた欧州各国のパートナーとともに。ドイツによる犯罪を生き延びた人々や、私たちに手を差し伸べてくれた実に多くの犠牲者遺族の人々とともに。この国に、再出発のチャンスを与えてくれた世界中のすべての人々とともに。

また、あの時代を自ら経験した我が国の高齢者の人々とともに、記憶を呼び起こしたいと考えていました。飢え、逃亡、暴力、追放。子どもの頃こうしたあらゆる過酷な経験をし、戦後、東側、西側の双方でこの国を築き上げた人々です。

そして若い人たちとともに追悼をしたいと考えていました。今日、自分たちはそもそも過去から未だに何を学べるのかと問うている、当時から数えて三世代目にあたる若い人々です。私は彼らに呼びかけます。「君たちが頼りだ。まさに君たちが、あの恐ろしい戦争の教訓を将来に伝えなければならないんだ」と。だからこそ私たちは本日、世界中から何千人もの若者をベルリンに招いていました。先祖が敵同士であり、今は友人同士である若い人たちです。

このようにして、本日5月8日、ともに記憶を呼び起こしたいと考えていたのです。しかしコロナの世界的流行により、私たちは大切に思う人、感謝を抱いている人と離ればなれのまま、孤独に追悼するという状況を余儀なくされています。

この「孤独」という状況は、私たちを今一度、1945年5月8日のあの日にしばし身を置いてみるきっかけになるかもしれません。当時、ドイツ人は実際に孤立していたからです。ドイツは軍事的に敗北し、政治的・経済的に壊滅し、倫理的に打ちのめされていました。私たちは全世界を敵に回していたのです。

75年後の今日、私たちは、孤独に追悼をせざるを得ない状況にあります。しかし孤立はしていません!これこそ、今日という日がもたらしてくれる福音です。私たちの国は、力強く堅固な民主主義を有し、今年ドイツ再統一から30年目を迎え、平和で統合された欧州の中央部に位置しています。私たちは信頼を享受し、世界中の連携と協調の果実を得ています。解放の日は感謝の日である。私たちドイツ人は今、そう言えるのです。

心の底からこうした確信が得られるまで、三世代の歳月がかかりました。

確かに、1945年5月8日は解放の日でした。しかし当時はそれが、人々の頭と心にまだ届いていませんでした。

1945年、解放は外からやってきました。解放は外から来ざるをえなかった。この国はそれほどまでに深く、自らが生み出した災厄と罪にその身を絡めとられていたのです。西ドイツの経済復興と民主主義の再出発も、かつての敵国が示してくれた寛大さ、先見の明、和解の意思があったからこそ果たすことができたのです。

しかし、私たち自身もまた解放の一端を担っています。それは内なる解放でした。内なる解放は、1945年5月8日に起こったものでも、一日にして起こったのものでもありません。長く、痛みを伴う道のりでした。犯罪行為を知っていた者やそれに加担していた者の過去に関する総括と解明、家族内や世代間の葛藤をもたらした辛い問いかけ、沈黙と隠蔽に抗する闘い。

それは、私と同世代の多くのドイツ人が、少しずつこの国に普通の感情を持つようになっていった数十年の歳月でした。ドイツの近隣諸国において新たな信頼が醸成され、欧州の統合プロセスから東方条約に至るまで、慎重な接近が可能となっていった歳月でもありました。東欧諸国における勇気と自由への憧れが、壁の内側に収まりきれなくなり、最終的に、解放における最も幸福な瞬間、すなわち平和革命と再統一に至った歳月でした。私たち自身の歴史と格闘してきたこの歳月は、ドイツにおける民主主義が成熟していった歳月でした。

そしてこの格闘は今日まで続いています。記憶するという営みに終わりはありません。私たちの歴史から解き放たれることはありません。記憶を呼び起こさなければ、私たちは将来を失ってしまうからです。

私たちドイツ人が、自らの歴史を直視し、歴史的責任を引き受けたからこそ、世界の国々は我が国に新たな信頼を寄せてくれました。だからこそ、私たち自身もまたそのような国となったドイツを信頼できるのです。そこにあるのは、啓蒙された民主主義的愛国心です。分裂を伴わないドイツの愛国心はありません。光と陰への視座、喜びと悲しみ、感謝の念と恥を伴わないドイツの愛国心はありません。

ラビ・ナフマンは次のように書いています。「引き裂かれた心ほど完全な心はない」。ドイツの歴史は引き裂かれた歴史であり、何百万人もの人々に対する殺戮と、何百万人もの人々の苦しみに対する責任を伴います。このことは今日に至るまで私たちの心を引き裂きます。だからこそ、引き裂かれた心を持ってしか、この国を愛することはできないのです。

これを耐え難いと思う者、終止符を求める者は、戦争とナチス独裁の災禍を記憶から排除しようとするのみならず、私たちが成し遂げてきたあらゆる善きものの価値を失わせ、我が国における民主主義の中核的本質すら否定してしまうのです。

「人間の尊厳は不可侵である」。我が国の憲法の第一条に掲げられたこの一文には、アウシュビッツで起きたこと、戦争と独裁体制下で起きたことが、すべての人の目に見える形で刻み込まれています。そうです、過去を想起する営みは重荷ではありません。想起しないことこそ、重荷になるのです。責任を認めることは恥ではありません。責任の否定こそ、恥ずべきことなのです。

しかし75年後の今日、私たちの歴史的責任とは、どのようなものなのでしょうか。今日、私たちは感謝の念を抱いていますが、そこから安逸に走ってはいけません。記憶の営みは、厳しい課題や義務をつきつけてくるのです。

「もう二度と」− 戦後、私たちはこう誓いました。この「もう二度と」は、私たちドイツ人にとっては特に「もう二度と孤立するな」ということでもあります。そしてこれは、他のどこよりも欧州においてあてはまります。私たちは欧州の結束を保たなければなりません。欧州人として考え、感じ、行動しなければなりません。欧州の結束を、このパンデミック下において、また収束後において保てないのであれば、私たちは5月8日という日を節目の日とする資格はありません。欧州の失敗は、「もう二度と」という誓いの失敗でもあるのです。

国際社会は「もう二度と」というこの誓いから学びました。1945年以降、戦争の惨禍を教訓として、共通の土台、すなわち人権と国際法、平和と協力のルールを作り上げていきました。

甚大な災厄を引き起こした私たちの国は、国際秩序を脅かす危険な存在から、時を経て、秩序の推進者となりました。私たちは今、この平和秩序が私たちの目の前で溶融するのを許してはなりません。この秩序を作り上げた人々との心理的距離が広がり続ける状況を受け入れてはなりません。パンデミックとの戦いでもそうですが、私たちが目指すのは国際協力の拡大であって縮小ではないのです。

「5月8日は解放の日であった」。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領のこの有名な言葉を、改めて別の角度から理解する必要があると思います。当時この言葉は、私たちの過去との格闘におけるマイルストーンとなりました。しかし今日、この言葉は未来に向けたものとしても理解しなければなりません。すなわち、「解放」の過程には決して終わりはなく、また、私たちは受け身にとどまっていればよいわけではなく、日々能動的に解放を実現することが求められているのです。

当時、私たちは他者により解放されました。今日、私たちは自らを解放しなければなりません。

新たなナショナリズムの誘惑から、権威主義的な政治の魅力から、各国間の相互不信、分断、敵対から自分たちを解放するのです。憎悪や誹謗・攻撃、外国人敵視や民主主義軽視からの解放を進めるのです。これらはみな、装いを新たにしているだけで、かつてと同じ悪の亡霊です。今日、今年の5月8日、私たちはハーナウの外国人銃撃事件、ハレのシナゴーグ襲撃事件、カッセルの政治家射殺事件の犠牲者を悼みます。コロナ禍で彼らが忘れ去られることはありません。

イスラエルのルーベン・リブリン大統領は今年、ホロコースト犠牲者追悼の日にドイツ連邦議会での演説で「ここドイツで起きるなら、どこでも起こりうる」と述べました。ここで起きるなら、どこでも起こりうる。しかし今日、その危険から私たちを解放してくれる人は誰もいません。自らの解放は自分で行わなければならないのです。私たちは、自ら責任を担うために解放されたのです。

確かに、今年の5月8日は、激しい変化と大きな不確実性の只中で巡ってきました。コロナ以前からそうでしたが、コロナによってその状況に拍車がかかりました。いつ、どのようにこの危機から脱することになるか、今は分かりません。しかし、どのような心構えで今回の危機を迎えたかは分かっています。この国と私たちの民主主義への強い信頼、ともに担うことができるものへの強い信頼を胸に、私たちは今回の危機を迎え対応したのです。これはまさに、私たちがこの75年の間にいかに大きな進歩を遂げてきたかの証左です。これを見ると私は、今後何が待ち受けていようとも、私たちのこれからに希望を抱くことができるのです。

国民の皆様、

コロナのため、私たちはともに記憶を呼び起こし、式典に集まることはできません。しかし、この静寂を活かしましょう。立ち止まりましょう。

全てのドイツ人へのお願いです。どうか今日は静かに戦争とナチスの犠牲者に思いを馳せてください。ご自身の出身にかかわらず、ご自身の記憶、家族の記憶、そして私たちの国の歴史に問いかけてみてください。解放が、5月8日が、ご自身の人生と行動にいかなる意味を持つのかを考えてみてください。

終戦から75年。私たちドイツ人は多くの感謝すべき状況に恵まれています。しかし、あれ以来得られてきたそうしたありがたい成果のうち、ひとつとして永遠に保障されているものはありません。従ってその意味においても、5月8日は解放が終わった日ではないのです。むしろあの日以来、自由と民主主義の追求が託され続けているのです。私たちに、託され続けているのです。


 五島列島シリーズ㉗  ◆ ハマウド(セリ科シシウド属)◆

ハマウド 2018.5.8撮影 奈留島 皺の浦

福江島から奈留島へ渡る。早朝の浜辺ででっかいウドのような植物発見。花はまだ咲いていないが、帰宅して調べて見るとハマウドだとわかる。「ウドの大木」という言葉があるが、ウドは木ではなく草。ウドの茎は木のように長くなるが、柔らかくて材としては使えないところから、からだばかり大きくて役に立たない人のたとえ。

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