2017年11月4日土曜日

日本国憲法の誕生 ⑭民政局の活動<3> 天皇条項

マッカーサーノート(三原則)の第1項は天皇に関することだった。

マッカーサーノート第1項
天皇は、国の最高位の地位にある。
皇位は世襲される。
天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする。

昭和天皇ヒロヒト
「最高位」は、「ヘッド」の訳であり、従来は「元首」と訳していた。

マッカーサーノートが民政局長のホイットニーから民政局主要メンバーのケーディスら3人に提示されたのが1946年2月3日だったが、それに先立つ同年1月1日、いわゆる天皇の「人間宣言」が行われている。

この詔書の人間宣言にあたる部分は最後の数行であり、以下の通りである。
「新日本建設に関する詔書」(いわゆる「人間宣言」)より抜粋
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ

2017年10月18日水曜日

日本国憲法の誕生 ⑬民政局の活動<2> 戦争放棄

総選挙たけなわである。
一昨日の赤旗に次のような記事が載った。
赤旗2017.10.15付
あの前川喜平が次のように述べている。

憲法9条は人類の知恵の積み重ねのなかで生まれたもので、人類史のなかで燦然と輝いています。人類の憲法と言える9条をいかに大事にしていくかが問われています。

2017年9月22日金曜日

日本国憲法の誕生 ⑫民政局の活動<1> 憲法前文とハッシー

ケーディスの回想によると、ハッシーは前文をやらせてほしいと自分から申し出たことになっている(鈴木昭典「密室の九日間」)。

草案作成のための組織図を見ると、1人で担当した分野はリゾーの「財政に関する小委員会」とハッシーの「前文」のみだ。

2013年9月3日の「未来ビジョン」(リンクはユーチューブ)という放送で、安倍晋三が、

「日本は戦争に負けましたから、敗戦国は詫び状文を書けと。しかも自分で書いたんじゃないんですよ。これはアメリカの25人のうちの1人がですね、たった1人の人物がこれを書いたんですよ」

と息巻いている「1人」とはハッシーのことだ。

2017年9月17日日曜日

日本国憲法の誕生 ⑪民政局はなぜ短期間で草案をつくることができたのか<5> 民政局の優秀なメンバーとその組織

2007年のNHKスペシャルから
マッカーサーは1946年2月1日に毎日新聞にスクープされた政府案(松本乙案)を見て、極東委員会の介入が始まる前に、日本国憲法草案を秘密裡にGHQがつくってしまおうと決意する。

マッカーサーの意を受けたホイットニー民政局長は、2月3日、ケーディス、ハッシー、ラウエルを部屋に呼び、憲法草案を民政局がつくるよう指示。
そして、マッカーサー・ノートとよばれる三原則を呈示する。

2017年9月13日水曜日

Jアラートはオスプレイが飛ぶときにこそ発せよ!



2017年8月29日、午前8時半頃、録画しているNHK朝ドラを見ようとDVDレコーダーの録画リストを開くと「ひよっこ」がない!
また何かミスって録画できなかったのかと調べているうちに、NHKの生放送で「朝イチ」の時間帯なのに他の報道番組をしていることに気づいた。
中国新聞 2017.8.30付
どうやら、また北朝鮮がミサイル発射実験をして、それが北海道上空を飛び越え太平洋に落下したらしい。
こんなことで通常番組を打ち切り、さも大災難が起こったかのような報道のばかばかしさに呆れ果てて、昼の朝ドラ再放送を予約してテレビを切る。

2017年9月8日金曜日

日本国憲法の誕生 ⑩民政局はなぜ短期間で草案をつくることができたのか<4> 開戦直後から始まったアメリカの戦後対日政策

鈴木昭典
今回はほとんど鈴木昭典著「日本国憲法を生んだ密室の九日間」(以下「密室の九日間」)第三章の要約であったり引用である。

国務省・極東班

信じられないようなことだが、ルーズベルトは対日戦が始まると同時に戦後の対日政策立案を国務省に指示している。
1942年8月には、国務省内に極東班という組織が作られた。
目的は日本の戦後処理についていかなる方針で臨むかの研究である。

極東班は9人の極東・日本の専門家で構成されたが、主なメンバー以下の通り。

2017年8月30日水曜日

日本国憲法の誕生 ⑨民政局はなぜ短期間で草案をつくることができたのか<3> 鈴木安蔵と植木枝盛

鈴木安蔵
鈴木安蔵は、京都大学在学中にマルクス主義にひかれ、1926年(大正15年)京都学連事件で検挙(治安維持法違反第1号)、豊玉刑務所に2年服役している。

服役中に憲法研究に傾倒し、出獄してからも吉野作造に励まされたりして、憲法研究に拍車がかかった。
1933年(昭和8年)、「憲法の歴史的研究」を発表したが、発禁処分となり、学会からは異端児扱いされる。

吉野作造のアドバイスもあり、憲法研究の過程で自由民権運動に大きな関心を持つ。
ETV特集では「国家は人民の自由を守るためにこそある。そのために憲法が必要だと植木は著書で明快に論じていた」とナレーションが入って、鈴木は植木枝盛に強くひかれたとある。