2019年3月7日木曜日

3・1朝鮮独立運動100年 ③独立運動の推移

大日本帝国の大礼服をまとう高宗
今回は、3・1朝鮮独立運動は具体的にどのような経過をたどたのかをみてみる。

1910年に日本が韓国を併合したときの国王は高宗(コジョン)だった。
即位した1863年時は11歳だったが、併合後は国王という身分はなくなり、王公族のひとりとして徳寿宮李太王という称号を与えられている。
妃(妻)はあの日本人によって虐殺された閔妃(ミンビ)。
閔妃については昔「志位委員長のツイッターから『原爆投下は神の懲罰』を考える」というタイトルのブログで少しふれた。

この高宗が1919年1月21日に亡くなり、3月3日に国葬が行われる予定だった。

そのためもあって、3月1日のパゴダ公園には多くの朝鮮人(50万ともいわれている)が集まっていた。
そこで突然のように「宣言書」が朗読され、独立運動が開始したのだ。

宣言書を一読してわかるように、この運動は暴動とかテロとかといった過激なものではなく、「大韓独立万歳、マンセー」と叫びながらデモ行進を行う平和的なものだった(なので万歳運動ともいう)。

しかしながら、瞬く間に朝鮮半島全土に広がり、3カ月のあいだに200万人が参加。
その後約1年にわたって続いた。

以下、神奈川県高等学校教職員組合が1986年に発行した「わたしたちと朝鮮」という古い本から引用する。

――ここから引用

誰に教えられたのでもなく

民族の幸福と祖国の回復をねがうあらゆる朝鮮の老若男女は、都市・農村を問わず「独立万歳」を叫んだ。
ある小学校の卒業式では次のような劇的な光景がみられた。

「これだけはお許しねがいます」と、かれは服の中に手をつっこむと朝鮮国旗を取り出したのである。
そんなものを持っているだけで罰せられることであった。
旗をふりながら、かれは叫びだした。
「祖国を返せ。朝鮮に永遠の栄えあれ。万歳!」。
少年たちはみんな席を飛びだし、めいめい自分の上着から旗をひっぱりだして、それをふりながら口ぐちに叫んだ、「万歳! 万歳! 万歳!」。
かれらはたいせつな卒業証書を、恐れをなした来賓たちの目の前でずたずたに引きさき、地にたたきつけてむらがり出ていった。

またある農村の張雪という女性は、独立運動がおきたと聞き、喪服を着て警察署前にいき、「独立万歳」を叫んで逮捕された。
警察官が、誰に教えられてこのようなことをするのかと尋問すると、「教えた人はいない」とし、さらに「教えた人がいないのに、どうして万歳を叫ぶのを知っているのか」との問いに、「鶏は夜明けになると鳴くものです、誰が鳴くことを教えたでしょう。わが国の独立の燭光が見えだしたから私は独立を叫んだだけです」と答えた。
*朴慶植著「朝鮮3・1独立運動」から

すさまじい弾圧
赤旗日曜版 2019.2.26付

日本官憲の弾圧はすさまじかったが、その中でも水原郡提岩里(スウォン郡チュアムニ)の教会での村民虐殺はひどかったようだ。
奇跡的に生きのこったおばあさんの証言をここに紹介しよう。

事件から何日かたつとやっと食事や眠ることが許されました。
約一週間するとまた日本人がやってきて、この礼拝堂に15歳以上のものはみんな集まれっていいました。
ただ一言いって帰るだけだからっていうんでみんなで集まりました。
礼拝堂に入ると東と西の入り口から兵隊が入ってきました。
私は西から入ってくるのは見ませんでしたが、正面から入って行くのだけ見ました。
そして人を全部集めておいて誰それも連れてくるようにって言いつけました。
その婦人が連れてこられて「私をどこへ連れて行く積もりなの」って言うと、いきなり銃撃してその人は一晩中苦しんで明け方に死んでしまいました。
また、礼拝堂の中で銃殺をくり返すだけでなく何か薬をまいたっていう話もあります。
そして、石油をかけて火をつけました。
礼拝堂は人間もろとも燃え上りました。
やっと逃げ出した人も家まで追いかけた日本兵に銃殺されました。
それからまたその後その山に「カン・ケセキ」って若い婦人が立って泣いているので「どうして泣くのか」ってきくと子供達があの礼拝堂に集められて日本兵がのどを一度つついて、つきささらないので一ヶ所に集めて火をつけたって言うんです。
部落の全部に火をつけ、この礼拝堂の中からも外からも火をつけました。
一度銃声がしまた銃声がしました。
そのまま雷のような音がして人間を全部殺しました。
*「11PM」より吹き替えのききとり

投獄された人々―朝鮮のジャンヌ・ダルク=柳寛順と金マリヤ

柳寛順
投獄された5万人近くの人々の中でも特に愛国心に満ちあふれていたのが、柳寛順(ユ・グァンスン)だ。
彼女は、ソウルの梨花学堂で勉強していたが、3・1運動を目のあたりに見て、いてもたってもいられなくなって、故郷に帰り、そこで独立運動を指導した。
獄中で毎日必ず「大韓独立万歳」を大声で叫び、取り調べに対しても独立運動という正しいことをしたのにどうして獄にあるのかと主張し続けた。
ほんの18歳の少女がである。
いったいなにが彼女をそこまで動かしていったのだろうか。
毎日受ける拷問に耐えながら獄中でも逆に他の皆をはげまし「万歳」を叫びつづける。
自分の身体が、滅びるまで……。
しかし、彼女の死に顔には、自己の思いを主張できたすがすがしさが残っていたという。

独立運動で逮捕された金マリヤは、裁判官と次のような問答をしている。
裁判官「どうして独立が必要と考えるのか」
金「私は朝鮮人である以上、朝鮮の独立を望むのはあたりまえのことです」
裁判官「お前が朝鮮の独立を要求するのは、別の理由があるのか」
金「私には3つの理由がある。1つは朝鮮の幸福を図ること、2つは、日本の幸福を図ること、3つは世界の幸福を図ることである。…朝鮮人民はすでに日本の支配を拒否し、日本のいかなる圧制をも問題としていません。したがって日本がその安全を計るためには朝鮮の独立を許すのが最善の道でありましょう」
日本はすでに心において敗れ去っていたのである。

1975年金芝河(キムジハ)も言っている「あなたたち日本民族は、わが民族を野獣のように侵略し抑圧と搾取をほしいままにしました。しかしあの日私たちは、あなたたち日本民族を単に仇敵として復讐しようとしたのではなく、自らの主権と非暴力的、平和的な運動形式をもって宣布することによって、被害者である自民族のみではなく、残忍無道な加害者であるあなたたち日本民族をも同時に救うことを念じたのであります」
*和田春樹「非暴力と抑圧民族―日本人にとっての3・1運動」から

引用ここまで(画像挿入は太陽による)――

「ああ、いま目の前には、新たな世界が開かれようとしている。
武力をもって人びとを押さえつける時代はもう終わりである。
これまでの歴史のなかで、絶えることなしにずっと、磨かれ、大切に育てられてきた、人間を大切にする精神は、まさに新しい文明の新しい文明の希望の光として、人類の歴史を照らすことになる」


とうたった宣言書であり、独立運動ではあったが、日本政府は本国から軍隊を増強してまでこの運動に大弾圧を加えた。
この弾圧による犠牲者は、文献によってまちまちのようではあるが、ブレーンセンター発行の「朝鮮民族の歩みと日本 歴史編1」では、はじめの3カ月だけで、死者7500人、負傷者16000人、逮捕者47000人とある。

目立った独立運動はほぼ3カ月で収束したが、日本政府は朝鮮民衆の力に大きな衝撃を受け、併合以来行ってきた苛烈な武断政治を改め、文化政治への転嫁を余儀なくされる。

また、この運動の指導者たちの一部は、この年の4月11日、上海において国民主権を主張する臨時政府を設立する。
文在寅現韓国大統領は、この日を韓国の建国記念日だと主張している。
彼にいわせると、今年は韓国建国100周年ということにもなる。


 佐渡ドンデン山シリーズ⑯  ◆ ナギナタコウジュ(シソ科ナギナタコウジュ属)◆

ナギナタコウジュ 2017.9.30撮影
前回からドンデン山は下りてきて海岸沿いに車を走らせているのだが、佐渡の延長でシリーズを続ける。この花ははじめて見るような花で、名前を調べるのに苦労しそうだなと思っていた。ところが、スマホの「野草がすぐわかる」というフリーソフトを見つけて使ってみると、すぐに見つかった。びっくりした。「名は漢方の香需に似て、花序が薙刀の様な形をしているため」と別のWEBに書いてあった。ヤマハッカにも似ているので、どうかなとも思う。

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