こんな時間帯に何の合図だろうと思って、時計を見たら11時2分だった。
そこで今日が長崎の原爆忌だったと気づいた。
ここ広島市で、毎年8月9日の11時2分に哀悼のサイレンが鳴っていたのか不覚にも記憶がない。
ともあれ、地元区役所のはからいにちょっと涙がにじんだ。
8月6日の広島での記念式典で松井市長が恒例の「平和宣言」をした。
社会福祉を削り、財界や富裕層に奉仕する政府に追従する松井市長も、この日限りは政府と一線を画するパフォーマンスをする。
広島市のHPから |
賛同する。
政府への要求はいくつかしたものの、批判は「日本政府が進めているインドとの原子力協定交渉は、良好な経済関係の構築に役立つとしても、核兵器を廃絶する上では障害となりかねません」といくぶん遠慮気味だ。
最後に述べた「日本政府が国民の暮らしと安全を最優先にした責任あるエネルギー政策を早期に構築し、実行することを強く求めます」の具体的な中身は不明だが、それが原発即時撤廃であることを願う。
広島市長の平和宣言とは対照的に、長崎の田上市長の平和宣言は日本政府への要求や批判が具体的ですばらしかった。
平成25年 長崎平和宣言
68年前の今日、このまちの上空にアメリカの爆撃機が一発の原子爆弾を投下しました。熱線、爆風、放射線の威力は凄まじく、直後から起こった火災は一昼夜続きました。人々が暮らしていたまちは一瞬で廃墟となり、24万人の市民のうち15万人が傷つき、そのうち7万4千人の方々が命を奪われました。生き残った被爆者は、68年たった今もなお、放射線による白血病やがん発病への不安、そして深い心の傷を抱え続けています。
このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。
日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。
非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。
核兵器保有国には、NPTの中で核軍縮への誠実な努力義務が課されています。これは世界に対する約束です。
2009年4月、アメリカのオバマ大統領はプラハで「核兵器のない世界」を目指す決意を示しました。今年6月にはベルリンで、「核兵器が存在する限り、私たちは真に安全ではない」と述べ、さらなる核軍縮に取り組むことを明らかにしました。被爆地はオバマ大統領の姿勢を支持します。
しかし、世界には今も1万7千発以上の核弾頭が存在し、その90%以上がアメリカとロシアのものです。オバマ大統領、プーチン大統領、もっと早く、もっと大胆に核弾頭の削減に取り組んでください。「核兵器のない世界」を遠い夢とするのではなく、人間が早急に解決すべき課題として、核兵器の廃絶に取り組み、世界との約束を果たすべきです。
核兵器のない世界の実現を、国のリーダーだけにまかせるのではなく、市民社会を構成する私たち一人ひとりにもできることがあります。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という日本国憲法前文には、平和を希求するという日本国民の固い決意がこめられています。かつて戦争が多くの人の命を奪い、心と体を深く傷つけた事実を、戦争がもたらした数々のむごい光景を、決して忘れない、決して繰り返さない、という平和希求の原点を忘れないためには、戦争体験、被爆体験を語り継ぐことが不可欠です。
若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。
あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です。68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。
地域の市民としてできることもあります。わが国では自治体の90%近くが非核宣言をしています。非核宣言は、核兵器の犠牲者になることを拒み、平和を求める市民の決意を示すものです。宣言をした自治体でつくる日本非核宣言自治体協議会は今月、設立30周年を迎えました。皆さんが宣言を行動に移そうとするときは、協議会も、被爆地も、仲間として力をお貸しします。
長崎では、今年11月、「第5回核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」を開催します。市民の力で、核兵器廃絶を被爆地から世界へ発信します。
東京電力福島第一原子力発電所の事故は、未だ収束せず、放射能の被害は拡大しています。多くの方々が平穏な日々を突然奪われたうえ、将来の見通しが立たない暮らしを強いられています。長崎は、福島の一日も早い復興を願い、応援していきます。
先月、核兵器廃絶を訴え、被爆者援護の充実に力を尽くしてきた山口仙二さんが亡くなられました。被爆者はいよいよ少なくなり、平均年齢は78歳を超えました。高齢化する被爆者の援護の充実をあらためて求めます。
原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、広島市と協力して核兵器のない世界の実現に努力し続けることをここに宣言します。
2013年(平成25年)8月9日
長崎市長 田上 富久
ところで、8月10日に共産党の創立記念講演会があった。
翌日(翌々日?)の赤旗に志位委員長の講演とともに参議院選挙で当選した8人のあいさつが全文載った。
その中で井上哲史の次のような言葉が目を引いた。
昨日の長崎式典の平和宣言は「被爆国の原点に返る」ことを求め、被爆者の方は核兵器も原発もなくすこと、憲法を変え戦争の時代に逆戻りしてはならないと訴えました。式典にいた安倍総理はこの言葉をどう聞いたか。地元紙社説は書きました。「式典会場が年老いた被爆者の力強い決意を賞賛する拍手に包まれる中、首相の両手は一度も動かなかった」
この井上哲史のあいさつを読んで、その地元紙社説を見たいと思ってさがした。
長崎新聞のホームページでは見つけることができなかったが、日本共産党摂津市会議員の野口ひろし氏のブログがヒットした。
そのブログに載っていた長崎新聞の画像から文字を起こした。
――ここから転載(長崎新聞8/10付社説)
長崎平和宣言 被爆地と被爆国の深い溝
68回目の「長崎原爆の日」は、被爆地長崎と被爆国政府の間に横たわる溝の深さを、あらためて強く印象付ける1日となった。
「被爆国としての原点に返ることを求めます」
平和祈念式典で田上富久長崎市長が読み上げた長崎平和宣言」は、同じ表現をあえて繰り返し盛り込み、「核」をめぐる姿勢を改めるよう、政府に詰め寄った。
平和宣言は、核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会(4月・ジュネーブ)での「核兵器の非人道性を訴える共同声明」への不参加を「世界の期待を裏切った」と厳しく指弾。NPT非加盟のインドとの原子力協定交渉再開も「NPTの形骸化をもたらす」「北朝鮮をはじめとするNPT非加盟国の核開発に正当化の口実を与える」と正面から批判した。
3日前の「広島平和宣言」と比べ、政府に対する批判のトーンは鮮明だ。
これに対し、安倍晋三首相は式典後の記者会見で、非人道声明について「基本的な考え方は支持する」「大変残念であり、今後は(同調する〕可能性を真剣に探っていきたい」としながらも、北朝鮮の核開発に言及しながら「現実の安全保障環境の厳しさに対応せざるを得ない」などと説明。「核兵器のない世界を実現する」ことを目指す政府の行動とは矛盾しない、と強弁した。
しかし、「強弁」は強弁でしかない。首相の説明は「状況によっては核兵器の使用を認めるのか」という被爆地と世界の問いにまったく答えていない。
式典では、「原爆の日」に関する首相の認識にも率直な疑問を感じた。
安倍首相はあいさつの中で、2度の原爆投下と敗戦からの復興に触れ、原爆の日について「犠牲になった方々の御霊(みたま)を慰めるとともに、先人たちの奮闘と、達成に、感謝をささげる日でもある」と述べた。
直後に登壇した中村法道知事は「祈りの日、誓いの日である」と強調した。首相の認識には「核兵器廃絶の誓い」や「不戦、非戦の誓い」を新たにするという「原爆の日」の大切な意義が抜け落ちているようにも見える。
被爆地と政府、首相の距離を感じさせる象徴的な場面があった。
被爆者代表の築城昭平さんは、「非人道声明」への不参加や原発再稼働、原子力技術輸出の動きを批判した上で「平和な世界をつくることは私たちすべての大人の責任だ」と「平和への誓い」を締めくくった。式典会場が年老いた被爆者の力強い決意を称賛する拍手に包まれる中、首相の両手は一度も動かなかった。
広島の式典では、首相の登壇時に会場周辺から抗議のシュプレヒコールが起きたと聞く。長崎は、第2次安倍政権発足以降の「核」や「平和」をめぐる一連の動きに対する危機感と憤りを平和宣言で突き付けた。被爆地との溝を埋め、距離を縮める真摯(しんし)な努力をいま一度、首相に求めたい。 (田崎智件)
転載ここまで――
長崎新聞がんばってるなという感じだ。
この社説を読んだら被爆者代表・築城昭平さんの「平和への誓い」も全文読みたくなった。
さがしてみると、朝日デジタルに載っていた。
――ここから転載(朝日デジタル8/9付)
平和への誓い 被爆者代表・築城昭平さん
今年もまた、暑い夏がやってきました。あの日のことは、私の脳裏から消えることはありません。
当時、私は18歳、師範学校の2年生でした。毎日、動員学徒として三菱兵器住吉トンネル工場に通っていました。1945年8月9日、夜勤を終え、爆心地から北1・8キロのところにある寮に戻ったのが午前7時ごろでした。主食のカボチャを食べた後、すぐに寝ました。
バリバリバリという音で目が覚め、その瞬間、爆風で吹き飛ばされ、気がついた時には部屋の壁に打ちつけられていました。隣に寝ていた友人は血だるまになっていました。私自身も左手首と左足が焼けただれ、飛び散ったガラスの破片で体中から血が流れ、赤鬼のような姿になっていましたが、はだしのまま20メートルほど先の防空壕まで逃げました。
防空壕の中はすでに人でいっぱいでした。その前には黒焦げになっている人、皮がペロリと垂れ下がっている人、鼻や耳がなくなっている人、息絶えたわが子を抱きしめ放心状態で座り込んでいる母親、全身焼けただれ茫然(ぼうぜん)と立っている人々の姿がありました。まさに地獄絵図でした。
やがて起こった火事に追われ、長与の臨時治療所にたどり着きました。その翌日から疎開先の自宅で療養しましたが、2カ月もの間、高熱と血便が続き、立つこともできず、脱毛と傷の痛みに悩まされました。近くに避難をしている人が次々と亡くなっていく話を聞くと、次は私の番かと恐怖の中で死を覚悟したものでした。私はそのときまだ、放射能の怖さを知りませんでした。
幸いにして、私はこうして生き延びることができました。今、強く願うことは、この大量破壊・大量殺人の核兵器を一日も早く、この地球上からなくすことです。しかし、いまだに核実験が行われ、核兵器の開発は進んでいます。もし核兵器が使用されたら、放射能から身を守る方法はありません。人類は滅亡するでしょう。
わが国は世界で唯一の戦争被爆国として、核兵器廃絶の先頭に立つ義務があります。私たち被爆者も「長崎を最後の被爆地に」をスローガンに核兵器廃絶を訴え続けてきました。それなのに、先に開かれたNPT再検討会議準備委員会で「核兵器の人道的影響に関する共同声明」に賛同署名をしませんでした。私たち長崎の被爆者は驚くというより、憤りを禁ずることができません。
その一方で、世界を震撼(しんかん)させた東京電力福島第一原子力発電所の事故で、新たに多くの放射線被曝(ひばく)者がつくりだされ、平和的に利用されてきた原発が決して安全ではないことが改めて示されました。それにもかかわらず、事故の収束もみえないのに原発再稼働の動きがあるとともに、原発を他国に輸出しようとしています。
ヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマの教訓として「核と人類は共存できない」ことは明らかです。政府は誠実かつ積極的に、核兵器廃絶さらには原発廃止に向けて行動してください。
そして今、平和憲法が変えられようとしています。わが国が再び戦争の時代へ逆戻りをしないように、二度とあのような悲惨な体験をすることがないように、被爆者のみなさん、戦争を体験した世代のみなさん、あなたの体験をまわりの人たちに伝えてください。長崎では核兵器の廃絶と平和な世界の実現を願って活動を続けている高校生、若者がいます。彼らが集めた署名は100万筆になろうとしています。
この高校生たちに励まされながら、私はこれからも被爆の実相を次の世代に伝えていきます。核兵器も戦争もない、平和な世界をつくることは、私たちすべての大人の責任です。
ここに、私の願いと決意を述べて、平和への誓いといたします。
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