2015年1月30日金曜日

「戦後レジーム」と「日米同盟」

昨日1/29の衆院予算委で、自民党の稲田朋美政調会長が質問に立ち安倍首相が答えるという靖国派お友達出来レースがあった。
その質疑の概略が今日の赤旗に載っている。
赤旗2015.1.30付 レイアウトは変えた
「戦後レジームからの脱却」というフレーズは、安倍が2006年の第1次政権時代から使っているもので、今回本人もいっているように安倍の信念だ。

その偏狭なナショナリズムの時代錯誤性は、たとえば「戦後レジーム」でグーグル検索したらトップに出てきた「中高生のための憲法教室(法学館憲法研究所)」(末尾にテキスト転載)をみれば一目瞭然だが、この稿では別の観点から述べる。

稲田は、「戦後レジームからの脱却」の重要なテーマとして次の3点をあげ、安倍の決意を促した。

 1 憲法改定
 2 集団的自衛権の行使容認を具体化する安全保障法制の整備
 3 “東京裁判史観”からの脱却

そして安倍は、

(連合国による)7年間の占領時代に(日本の)基本的な仕組みがつくられた。自分たちの手でつくったとはいえない」
「21世紀にふさわしい新たなしくみを自分たちの手でつくっていくべきだと考えているし、これは私の信念だ」

と答える。

おもしろいことではあるが、「連合国による7年間の占領時代」を、共産党の志位委員長は「綱領教室」(第1巻P201)のなかで次のように言っている。

 同時に、実質的には、占領軍が絶対権力をもつ占領体制のもとでの七年間の「間接統治」がつくりだした支配・被支配関係が重大でした。
この「間接統治」の経験が、骨の髄まで「アメリカ絶対のDNA」を日本の支配勢力に刷り込むことになりました。
無数のアメリカ占領軍司令部からの指令が出され、それを日本側がそのまま「ポツダム勅令」「ポツダム政令」として執行していった。
その過程で、アメリカのいうことは絶対だという「DNA」が刷り込まれていったのです。

 さらにそこに、戦犯政治がつけくわわりました。戦犯勢力の復権、利用ということは、日本の対米従属に独特の深刻さ、卑屈さ、異常さをつけくわえました。

 こうして、いろいろな要素があいまって、この時期に「アメリカ絶対のDNA」が日本の支配勢力に深く刷り込まれることになったのです。

志位も安倍と同じように「戦後レジーム」は連合国占領の7年間につくられたと言っているのだ。

安倍が「戦後レジームからの脱却」「美しい日本をとりもどす」といいながら、同時に「日米同盟の深化」を追い求め、喜々として対米追随にはしるこのすさまじいねじれはどうだろうか。

安倍が(志位も)言っているように、「戦後レジーム」というものが連合軍による7年間の占領時代に作られたものであるならば、それからの脱却は「日米同盟」からの脱却であり、日米安保体制からの脱却であらねばならないではないか。

ついでにいっておくと、志位がいっている「戦犯勢力の復権、利用」とは、安倍が敬愛してやまない彼の祖父、つまり岸信介らのことだ。

罪を不問に付された人間――いったん戦犯としてとらえられながら復権させられた者からすれば、アメリカは「命の恩人」です。アメリカに生成与奪の権――首根っこをつかまれた人間となったわけです。そうなった以上、「命の恩人」に忠誠をつくさなければなりません。 (志位「綱領教室」から)

最近知人からの紹介で「安保条約の成立―吉田外交と天皇外交―」(豊下楢彦著)というとても刺激的な本を読んだ。



(カバーにある紹介文)
「安保問題」は戦後史の一大争点である。だが、そもそもなぜ、」一方的な駐軍協定というべきものになったのか。著者は、外務省の未公開文書さらにダレス文書などを徹底的に分析し、従来知られていた資料を再整理するなかで、戦後外交イメージを一変させていく。そこには「天皇外交」の姿も浮かび上がる。現代を考える為の必読書。
1996年発行



天皇ヒロヒトはマッカーサーと11回会見しているが、1947年5月6日に4回目の会見をしている。
3日前には新憲法が施行され、天皇は「元首」から「象徴」になったばかりだ。

天皇は憲法によって軍備を撤廃したことの不安をマッカーサーに訴える。
マッカーサーは「日本が軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障であって、これこそ日本の生きる唯一の道である」と“9条の精神”を説きながら天皇をなだめる。

天皇は、第9条にも国連にも期待できないかのように次のようにいう。

「日本の安全保障を図る為には、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアチブを執ることを要するのでありまして、此の為元帥のご支援を期待しております」

事実上アメリカの軍事力による日本の安全保障を求めた。

この会談について、著者の豊下楢彦は次のように書いている。

 それにしても、天皇の側の態度についていえば、この第四回会見のわずか一年九カ月まえまではアジア・太平洋諸国を「危険にさらしていた」国家の「象徴」が、その償いもなんら果たしていない段階で、しかも戦争放棄の第九条がなぜ求められることになったのかという歴史的経緯もほとんど認識されていないかのように、ただひたすら、みずからの国が「危険にさらされる」ことのみを考えるという発想には、驚かされるばかりである。
ましてや、以上の議論は、天皇が「象徴」として政治的行為を禁じられた新憲法の施行から三日目に交わされていたのである。

1950年に朝鮮戦争が始まる。
そのときの天皇の情勢認識をもとに豊下は次のようにいう。

つまり、朝鮮戦争の帰趨と天皇制の将来を、国際共産主義の侵略イメージにおいて“直結”させてとらえる深刻な危機感である。
そこでは、「朝鮮有事」とは「日本有事」、ひいては「天皇制の有事」そのものなのである。

 このような危機意識に立つならば、吉田が野党や世論の動向に神経を使い、あるいはマッカーサーとの関係維持に腐心するなかで、日本本土での基地提供という「根本方針」でいささかなりとも“動揺”を示すことは許しがたいことなのである。
ましてや、基地提供問題を交渉のカードとして扱うような発想それ自体が、あってはならないことになる。
つまり、日本の基地提供と米軍駐留は天皇にとって絶対条件なのである。

(中略)

 ところが天皇の側はまったく逆に、朝鮮戦争での米軍の苦境は、ソ連の直接侵略か国内共産主義者の間接侵略による「革命」と「戦争裁判」と天皇制打倒につながるものと見たのである。
とすれば、戦争放棄の新憲法のもとにあって、この未曾有の危機を救えるものは米軍以外にないという結論にいたるのは、きわめて自然のなりゆきであった。
ここでは、日本の側が米軍に対して「弱い立場」に立つ。日本こそが米軍駐留を「希望」「要請」し、基地の「自発的なオファ」に徹しなければならないのである。
そしてこれこそが、安保条約の「根本の趣旨」なのである。
なかでも「内乱条項」は、その核心に位置するものであった。
皮肉な表現を使うならば、ここにこそ、「国体護持」のための安保体制が新しい「国体」となる契機があったといえるであろう。
*強調文字は著者による強調。

豊下は、現在の日本の「国体」は(「国体護持」のための)安保体制だといっているのだ。
そうなる契機は旧安保条約が成立する過程における天皇外交にあったといっている。

安倍の今国会の発言、志位委員長の「綱領学習」での発言、そして豊下の指摘、この三者から得られる結論はやはり次のようになる。

「戦後レジームからの脱却」とは日米安保体制からの脱却に他ならない!
さあどうする安倍。

豊下の著書「安保条約の成立」は天皇ヒロヒトの戦争責任ならぬ戦後責任について論考していてとても興味深い。
別の稿でまたとりあげたい。


――ここから転載

中高生のための憲法教室 第42回
戦後レジームからの脱却

安倍首相は総理大臣に就任して以来、「戦後レジームからの脱却」が必要だとして改憲を主張してきました。
今月はこの意味を考えてみましょう。
まず、戦後レジーム(戦後体制)とはどういうことなのか、第二次世界大戦に負けて60年前に現在の憲法が施行される前後、つまり明治憲法下の戦前と戦後を比べながら明らかにしてみましょう。

戦前は、1874年の台湾出兵に始まり、71年間もアジアに向かって軍事侵攻し戦争をし続けた国でした。
戦後は新憲法の下で、「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」た上で、9条2項によって戦力を持たず、一切の戦争を放棄しました。
その結果、60年間直接的な戦争をしない国でい続けることができました。

戦前は、国のために犠牲になることはすばらしいことだと教育するために、国家が教育内容を決めて介入してきた国でした。
戦後は、教育基本法を作り、教育は不当な支配に服することがないようにし、教育行政も条件整備に限定しました(旧教育基本法10条)。

戦前は、戦死という悲しい出来事を、国のために戦って死ぬことは名誉あるすばらしいことだと讃えるために靖国神社という仕組みを作り、宗教を戦争に利用した国でした。
戦後は、政治は宗教に関わってはならないという政教分離原則を採用しました(20条3項)。

戦前は、思想良心の自由は保障されず、君が代や日の丸を通じて、天皇崇拝や軍国主義思想が強制されました。
表現の自由も法律によって自由に制限できる国でした。
戦後はこれらの人権を憲法で保障し(19条、21条)、国会が作った法律でも不当に人権を侵害できない国になりました。

戦前は、都道府県は政府の出先機関のような役割を果たすだけでしたが、戦後は、地方自治を憲法で保障し、政府が地方自治の本質を侵すことができないとしました(92条)。

戦前は、障害者、女性、子どもを戦争に役立たないとして差別した国でしたが、戦後は、差別のない国をめざしてきました(14条)。

戦前は、華族・財閥・大地主のいる一方で貧困に喘ぐ人々も大勢いた格差のある国でしたが、戦後は、貴族制度を禁止するとともに(14条2項)、財閥を解体したりする一方で、すべての国民の生存権を保障し(25条)、格差の是正をめざす国となりました。

そして何よりも、戦前は、天皇が主権者であり、その国家のために個人が犠牲になることがすばらしいという価値観の国でしたが、戦後は、主権者は一人一人の国民となり(1条)、その個人の幸せに奉仕するために国家があるのだという個人を尊重する国になりました(13条)。

国民は60年前に憲法を制定して、こうした戦前の旧体制に決別して新しい国になることを決意したのです。
これが戦後レジーム(戦後体制)です。
この新憲法下の戦後体制のもとで、国民は、一人一人を大切にする新しい時代の日本に生まれ変わろうと努力してきました。
戦前のように教育に国家が介入したり、宗教を利用しようとしてきたら、憲法がそのような国家の行為を禁止し、これを止めてきました。
政府が海外で軍事力を行使しようとするときに、憲法がそれをくい止めてきました。
憲法は国家権力を縛って、私たちの権利・自由を守り、平和を守ってきたのです。

この戦後レジームから脱却するということは、これらの価値を否定して、つまり、60年前に戻ることを意味します。

安倍総理はまず教育基本法を改正して、教育の目的を「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成」(新教育基本法1条)としました。
つまり国を支えるのに相応しい国民の育成を教育の目的とし、国家のための教育としました。
その結果、国を愛する態度が教育の目標として掲げられ(2条)、靖国神社を参拝して宗教との関係を復活させようとします。
また、有事立法の下では地方分権も名ばかりです。
女性蔑視発言をする閣僚を抱え、女性差別をなくすための民法改正に消極的です。
医療制度改悪、障害者自立支援法という名の弱者切り捨てを強行し、アメリカ流の極端な自由競争の結果、所得格差、教育格差、情報格差が広がっています。そして何よりも、個人よりも国家の価値を大切にすることを国民に押しつけようとしています。
これが戦後レジームからの脱却の意味であり、その集大成が「戦争ができる国」にするための憲法改正です。

ですが、戦後の日本が歩んできたこの憲法の体制を維持し発展させるか、それとも大きく変えて昔に戻すかを決定するのは、あくまでも主権者たる国民であることを忘れてはなりません。


◆ ツユクサ(ツユクサ科ツユクサ属) ◆
ツユクサ 2013.11.8撮影
古くは「ツキクサ」とよばれていて、万葉集などにたくさんの歌がある。「つき草のうつろいやすく思へかも我(あ)が思(も)ふ人の言(こと)も告げ来(こ)ぬ」(巻4 583)*Wikipediaから

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