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2019年4月10日水曜日

日本国憲法の誕生 ⑱「日本化への苦闘」もしくは「日米案翻訳戦争」

1946年 終戦後の空腹を訴える子どもたち
GHQ案に大きな反発を覚えた松本蒸治は、「憲法改正案説明補充」という大部の再説明書を書いて2月18日に民政局へ提出し、GHQの再考を促したが、「これについて再考の余地はない」と一蹴される。

日本政府案の提出期限である20日にはとてもまにあわないので、とりあえず22日までの延期を申し入れる。
その22日、松本はホイットニーと会談し、いくつもの条件を出す。
たとえば、

●GHQ案は、人民の発議になっているが、大日本帝国憲法は、第73条で、天皇の発議以外には憲法を改正できないとしている。
●戦争放棄の条項は、前文に入れられないか?
●我が国の国情から二院制が必要だ。

ホイットニーは二院制だけを認め、ほかはほとんど拒否。

同じ22日、幣原首相は参内し、天皇にこれまでの経緯を言上。
天皇の”御聖断”は次のようなものだった(GHQの対日占領公式記録「日本政治の再編成」から)。

「内閣総理大臣は、最後の手段として吉田と楢橋を伴い天皇のご意見を伺った。
裕仁(ヒロヒト)は躊躇されなかった。
彼は幣原に最も徹底的な改革を、たとえ天皇ご自身から、政治的機能の全てを剥奪するようなものであっても、全面的に支持すると勧告された」

ここにいたって、松本蒸治はGHQ案を骨抜きにした日本政府案をつくろうと決意する。

宮沢俊義に協力を断られた松本蒸治は、法制局次長の入江俊郎と第一部長の佐藤達夫をスタッフに選んだ。
2人とも元憲法問題調査会のメンバーだ。

松本らは3月11日ごろ完成を目標に極秘で作業を進めた。
当然GHQ案を忠実に翻訳するような仕事ではなく、3人のエリートが総力をあげて日本案を作ろうとした。
が、GHQからの強い催促により、3月2日までにできていた政府案(「3月2日案」あるいは「日本案」ともいわれている)を閣議も経ずに日本語のまま3月4日、民政局に提出することになる。

3月4日午前10時から民政局で行われた会議には、日本側からは松本蒸治(国務大臣)、佐藤達夫(法制局第1部長)、白洲次郎(終戦連絡事務局次長)、外務省から小畑薫良と長谷川元吉が出席。
民政局側からはホイットニー(民政局長)、運営委員会のケーディス、ハッシー、ラウエルの3人、加えてヘイズ、ロウスト、プール、そして通訳としてベアテ・シロタも参加していた。

日本側としては、これをたたき台にして交渉を続けながら時間をかけて最終案を作っていくつもりだった。
ところがケーディスは、その日本案の英訳をすぐに始め、逐条できあがった英文から検討を始めた。
つまり、民政局はこの会議で日本国憲法の最終案を確定するつもりだったのだ。

なぜそこまで急ぐのか。
理由はすでに触れたとおり極東委員会の発足だった。
極東委員会が日本国憲法に手をつける前に既成事実をつくるということだ。
そうでなければ天皇制は守れないだろう。

このあたり、どちらが日本の「国体護持」のために力を尽くしたのかと思ってしまう。

松本蒸治の敗北

民政局で始まった会議では、すぐに日本案に「前文」が付いていないことをケーディスが発見し、「これはいかん、GHQ案の前文をそのまま付けろ」と最初から激しいやりとりになる。
日本案の翻訳が進むにつれ、会議はますます険悪になっていく。

GHQ案 日本案
第1条 天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。この地位は、主権を有する国民の総意に基づくものであって、それ以外の何物でもない。 第1条 天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国ノ象徴及日本国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス。
第2条 皇位は、世襲のものであり、国会の制定する皇室典範に従って継承される。 第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ継承ス。

ケーディスは第1条の「それ以外の何物でもない」が日本案ではなぜなくなっているのか、第2条の皇室典範は「国会の制定する」をなぜ取ったのか、といちいちかみついてくる。
ただ、「主権を有する国民」、つまり国民主権を日本案では「国民至高」と表現している部分については、翻訳で sovereign(主権)になっていたので気づかれずにすんでいる。
この部分はのちの国会での論議(共産党の指摘)で問題になる。

続く第3条でも大もめにもめる。
GHQの案では、天皇の国事行為には「内閣の助言と同意を必要とする」とあったが、日本案は「補弼(ほひつ)を必要とする」に変えられている。

日本人にしてみれば、助言とか同意という言葉は天皇に対して畏れ多いのである。
補弼という表現は明治憲法を踏襲した単語だ(明治憲法第55条「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」)。
まあできるだけ明治憲法から逸脱したくないというのが日本側、というより松本蒸治の本音だ。

このあたりの日本語のニュアンスをアメリカ人に理解させることは容易ではなく、当然おたがい激論になる。
松本はこのとき68歳。
憲法学者ではなかったが、法学博士であり、戦前は東京帝大教授、法制局長官や商工大臣、関西大学学長などを歴任。
相当の自信家で、自分ほどえらいものはいないと思っていたかどうかはわからないが、この松本が、ケーディスのような若造(39歳)に対等以上の議論をふっかけられてがまんのできるはずがない。
14時過ぎ、ついに松本は席を立って帰ってしまう。

以後、松本は憲法に関して表舞台に出ることはない。
「松本にとって、3月4日のケーディスとの折衝は、法律家としての敗戦、あるいは玉砕といった方がよい体験であった」(古関彰一)

佐藤達夫の孤軍奮闘

佐藤達夫
松本が去ったあとは、民政局と対等にわたりあえる日本側の代表は佐藤達夫法制局部長ひとりとなった。
白洲次郎終戦連絡事務局次長がいたが、彼の役割については私自身よくわかっていない(数年前にNHKが彼の戦後の役回りをドラマ化した番組を作ったが私は見ていない)。

逐一条文中の日本語と英語のちがいを明確にしながら、延々と会議は続いた。

佐藤対民政局の激論はすべての条文に及んだと思われるが、中でもよく取り上げられるのが女性の権利条項だ。

真夜中の2時過ぎ、ベアテ・シロタが苦心惨憺して作った草案を運営委員会でケーディスにより次々と削除され、わずかに残っていた「婚姻における両性の平等」などの女性の権利について佐藤が全面削除を主張した。

いわく、「日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌はない。日本の女性には適さない条文が目立つ」(「1945年のクリスマス」から)。

ベアテ・シロタはこの佐藤の主張を正確に通訳しなければならなかった。

このときのベアテ・シロタの苦衷を救ったのがあのケーディスの次の発言だった。

「しかし、マッカーサー元帥は、占領政策の最初に夫人の選挙権の授与を認めたように、女性の解放を望んでおられる。
しかも、この条項は、この日本で育って、日本をよく知っているミス・シロタが、日本女性の立場や気持ちを考えながら、一心不乱に書いたものです。
悪いことが書かれているはずはありません。これをパスさせませんか?」(同上)

NHKインタビューに答える晩年のベアテ・シロタ
この「1945年のクリスマス」では、シロタがこの条文の草稿をかいたとシロタ自身がケーディスに言わせているが、NHKのシロタ晩年のインタビューを見ると、この会議でのケーディスの発言は、シロタが草稿を書いたということは一言も言わず、ただこのシロタがこの条文をとても大切に思っているというような発言になっている。

どちらにしても、このケーディスの言葉に日本側は民政局に譲歩する。
つまり、日本側は過去日本に10年も暮らし、今も優秀な通訳として(また若く美しい?)けなげにがんばっているシロタに大きな好意を抱いていたからだった。

民政局と佐藤達夫との各条項における激論は古関の「日本国憲法の誕生」第9章「日本化への苦闘」にくわしいが、個々の言葉の誤訳や矛盾がないような細かい検討も大変な作業であり、結局会議が始まって30数時間が過ぎた3月5日の夕方にすべてが終わった。

古関は「日本化への苦闘」といい、ベアテ・シロタは「日米案翻訳戦争」と書いている。

早々と白旗を揚げた松本蒸治にかわり、このときの佐藤達夫の奮闘は特筆に値するのではないだろうか。

佐藤はこの後片山内閣や吉田内閣で法制局長官として活躍し、1962年からは人事院総裁を務めている。
また、植物研究家としても知られ、多くの花の本を出版したりしていて個人的に親近感を持ってしまう。



 五島列島シリーズ②  ◆ ハマエンドウ(マメ科レンリソウ属)◆

ハマエンドウ 2018.5.5撮影 福江島鐙瀬溶岩海岸
北海道から九州まで日本中どこでも海岸で見る。紫色のけっこう大きな花なので、とても目立つ。レンリソウ属とは聞き慣れない言葉で、ちょっと調べて見たら、「レンリ(連理)とは違う木や枝が絡み合い、融合し、一体となることをいいます」という解説を見つけた。レンリソウという種もあった。

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