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2017年3月6日月曜日

映画「この世界の片隅に」とNHK朝ドラ

映画「この世界の片隅に」から
アニメ映画「この世界の片隅に」がキネマ旬報1位になったり、日本アカデミー賞でも最優秀アニメ映画になったりと、この1年間の映画界の話題をさらった観がある。
私も観たが、いい映画だ。
しかし、そんなに大騒ぎするほどのものだろうか(失礼)。

私に映画の鑑賞能力がないといってしまえばそれまでだが、事実、「東京物語」のブログ投稿では、私の感性が試されていると痛烈なご批判をコメントでいただいた。
「東京物語」は、なぜ世界一(しかも映画史上)なのかだけでなく、どうしても好きになれない映画だ。

それに比べれば「この世界の片隅に」はいい映画だと思う(が、2回観ようとは思わない)。

映画賞で1位になるのも、その1年間で上映された映画の中の相対評価だから、特に異論はない。
というより、他の映画をほとんど観ていないので比べようがない。
なお、アニメについて一言いい添えるならば、未だに「となりのトトロ」を超えるアニメは生まれていないのではないか。

「この世界の片隅に」のどこがすばらしいのかについては、たくさんの方のレビューがネットにあふれている。
(たとえば「隠遁への誘い・「アルプ・スナフキン山荘」だより」
ここで私が付け足すことは何もない。

この映画が高く評価されることの一つに、日常生活と戦争の表現方法があるようだ。
監督の片渕須直はこの映画の公式サイトで次のように語っている(上記ブログ「隠遁への誘い」でも引用されている)。

僕(片渕須直監督)は、アニメの中で普通の日常生活の機微を描きたいと思っています。『この世界の片隅に』は、戦争が対極にあるので、毎日の生活を平然と送ることのすばらしさが浮き上がってくる。「日常生活」が色濃く見える。ふつうの日常生活を営むことが切実な愛しさで眺められる。これはたしかに自分がチャレンジしてみるべき作品だと強く思いました。

同様の視点では、NHKの朝ドラがすぐに連想される。

朝ドラは「あまちゃん」のあとが「ごちそうさん」で、次が「花子とアン」、そして「マッサン」と続いた。
「あまちゃん」がブレイクした余波で、私も「花子とアン」から毎日観るようになった。
ついでに、BSプレミアムで過去ドラを再放送しているので、そちらも観ている。

朝ドラは女の一代記を扱うことが多く、どうしても一時期あの戦争の時代を描かざるを得ない。
そして思う。
NHKは報道番組において露骨に政権寄りの放送をする代償措置として朝ドラを制作しているのではないか。
そう思うほど日常生活の中における戦争の描き方がすばらしい。

少し具体的に言うと、朝ドラでは戦争シーンはほとんどない。
「この世界の片隅に」では、空襲、機銃掃射、原爆…、かなりリアルな戦争シーンが出てくる。
朝ドラには皆無とは言わないがほとんどない。
ないけれど、戦争の不合理、悲惨、狂気などがちゃんと表現されている。

NHK朝ドラ「ごちそうさん」
たとえば今BSプレミアムで再放送している「ごちそうさん」だが、戦争シーンといえば一度だけ空襲によって街が壊され、逃げ惑う庶民の姿が描かれた。
焼夷弾が花火のように落下するシーンはあったが爆撃機の姿はない。
そのシーンをはさんで庶民の戦争下の日常生活が描かれる。

主役一家の明るく元気で健気な次男が海軍に志願する。
家族は思いとどまらせようとするが、少年の意志は固く、最後は家族も理解して送り出す。
そして数日後の放送で、戦死公報が届く。
ひとりの前途ある若者が突然その命を絶ち切られる。
その理不尽さに戦争というものの正体を突きつけられる。

NHK朝ドラ「マッサン」の一馬
私のまだ少ない朝ドラ視聴のなかで最も忘れられないシーンは「マッサン」の一場面。
一馬(かずま)はマッサン一家とは他人の熊虎の息子。
舞台は北海道で、戦争といえばときおり空襲警報が鳴るだけ。
その一馬に召集令状が届き、出征するまでの数日間、一馬を取り巻く人々と一馬の最後のふれあいがていねいに描かれる。

一馬が出征して2日後の放送で、突然一馬戦死の公報が届く。
このあたりは「ごちそうさん」の展開とよく似ている。
しかし、なんという演出だろう。
送り出したとたん、白木の箱になって帰ってくる。

ドラマや映画を観てこんなに泣けたのはほんとうに久しぶりだった。
20数年前のテレビドラマ「大地の子」を自分でもおかしいぐらい毎週泣きながら観ていた。
それ以来だ。

泣けるドラマや映画がすばらしいというつもりはないが、この「マッサン」の脚本というか演出にはほとほと脱帽した。
ここまで戦争を描かずに戦争を告発することができるということに。

ところで、私の友人知人の多くは朝ドラでは「カーネーション」が一番よかったという。
私は観ていないので、BSプレミアムで再放送される日を楽しみにしている。

余談だが、「カーネーション」の主役は尾野真千子だ。
彼女は広島NHK制作のドラマ「火の魚」で主演をし、私もそれで初めて尾野真千子という女優を知った。
「火の魚」は53分ほどの短いドラマだが、私はこれほど美しい映像ドラマを未だかつて見たことがない。

◆ マユミ(ニシキギ科ニシキギ属)◆
マユミ 2014.1.4撮影 ピントが甘い
マユミの実とその殻。林に自生するが、この写真は庭木。紅葉を楽しむらしいが、実もその殻も紅葉(?)している。なお、自分で撮ったのに同じ木かどうか自信がないが、3ヶ月前のマユミをこのブログで掲載している。

1 件のコメント:

  1.  その映画を高く評価した一人ですが、だからと言って2回観たいかどうかはまた別問題ですね(^O^)
     私の場合は2回観る代わりに原作漫画を読みました。そこで、この原作者の執筆の意図を知り、得心しました。我田引水で申し訳ありませんが、よければ参照してみてください。
    http://sonzaitojikan.blogspot.jp/2016/12/blog-post_20.html
     つまり、戦後70年にわたって続いてきた「ヒロシマ、ナガサキ、戦争、原爆」というものについての描かれ方やアピールの手法というのは、後の世代や他地域の人々から見れば辟易するほどに受け入れ難いものになっていたはず。
     私は40年以上も前の若い頃、10年近く広島を離れて東京に住んでいた頃、そういう空気を強く感じていました。どれほど真摯な思いから生まれた思想や運動であれ、それが「タブー」と化した瞬間から、逆説的にも「抑圧」や「桎梏」に転化するものだということを、ヒロシマやナガサキは気づいていない。だからといって人々はそういう事実に対する「良心の疼き」を忘れた訳ではない。
     そのような屈折した世代層のジレンマに、原作者こうの史代や片渕監督は思いがけない角度から表現を滑り込ませました。「穏やかな日常」の本源的な「非日常性」、そしてその「穏やかな日常」を破壊する者に対する「静かで深い怒り」。果たせるかな、それが多くの層に思いがけない共鳴を呼びました。
     この時代の政治運動や文学・芸術表現に必要とされる感性ではないかと思います。
     小津安二郎作品が「世界一」に値するかどうかは別にしても、私も彼の作品に深いシンパシーを覚えるようなったのはここ数年のことです。

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