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2012年8月6日月曜日

2010.8.6 NHKスペシャル「封印された原爆報告書」

67回目の広島原爆忌だ。
毎年この頃NHKが力の入ったNHKスペシャルを放映する。
今年は今晩「黒い雨・67年目の真実」がある。

ABCC(アメリカの原爆傷害調査委員会)の黒い雨に関する調査記録が見つかったことから今回の番組が作られている。
ABCCといえば、被爆者の治療のためではなくアメリカが自国のためだけに原爆の影響を調査したことはよく知られている。
被爆者はそのために協力を余儀なくされたのだ。

原爆を落としただけでも許せないことなのに、ABCCのしたことはさらに許せないことである。
しかし、ああ日本よ! といいたくなるようなNHKスペシャルが2010.8.6に放送されている。
その名は「封印された原爆報告書」

録画しているので今日再視聴した。
以下、その要旨を紹介する。

原爆が落とされた2日後、陸軍省医務局は広島に入り調査を開始する。
被爆者はどのように死んでいくのか、放射線は人体をどのようにむしばんでいくのかが詳細なデータとともに記録されていった。
その結果は「原子爆弾による広島戦災医学的調査報告」として1冊の報告書にまとめられる。

終戦後、その放射線の影響を調べる調査は1300人を超す科学者・医師による国家プロジェクトとなり、2年以上の調査の結果、181冊1万ページの報告書となる。
繰り返すが調査であり治療ではない。
当時の被爆者は自分たちがモルモット扱いだとはっきり認識している。

この膨大な報告書は終戦前の報告書とともにすべて英訳されアメリカへ渡った。
今回この報告書全文をNHKが入手したことによりこの番組が作られた。

アメリカの原爆調査団代表は陸軍のアシュレー・オーターソン大佐だった。
そのオーターソンとともに調査したフィリップ・ロジという人が生きていて次のように証言している。

「日本に到着するとすぐに報告書を提出したいという日本からの申し込みがあった。オーターソンは大変喜んだ。日本は私たちが入手できない重要なデータを原爆投下後に集めてくれていた。まさに被爆国にしかできない調査だった」

日本側の代表は陸軍省医務局の小出策郎軍医中佐だ。
そのもとで働いていた大本営所属の陸軍軍医少佐三木輝雄が次のように証言する。

「いずれ要求があるだろう。そのときはどうせ持って行かなくてはいけない。はやく持って行った方が心証がいいから要求がないうちに持って行った」

何のために心証を良くするのかというNHK取材陣の問いに、三木は長い沈黙の後に次のように言う。

「731(部隊)のこともあるでしょうね」

731部隊は中国大陸で化学・細菌兵器を中国人を人体実験に使いながら研究開発していた秘密部隊だ。
連合国はポツダム宣言で捕虜虐待などの戦争犯罪に対しては厳しい姿勢でのぞむことを確認していた。
731部隊の関係者が戦後研究資料をアメリカ側に引き渡すことで戦争犯罪を免れたということは公然の事実だ。

小出中佐は陸軍の戦後処理を任されていた。
8/15に小出に出された「戦争犯罪の疑惑から逃れる」「戦後の新たな日米関係を築く」という極秘命令からしても、原爆報告書をアメリカに渡すことは当時の国策にかなうものだった。

三木は続けて言う。

「新しい兵器を持てば、その威力は誰でも知りたいもの。有効なカードはあまりないので、原爆のことはかなり有力なカードだっただろう」

自らの開発した原爆の威力を知りたいアメリカと戦争に負けた日本の利害が一致したというわけだ。

原爆投下から2ヶ月後、アメリカが調査に入るとその意向を受けて日本側はさらに調査に力を入れる。
小出の後を受けた日本側の調査責任者は東京帝国大学教授の放射線医学第一人者だった都築正男だ。

アメリカがもっとも知りたいデータは、原爆がどれだけの範囲にいた人を殺すことができるのかということだ。

報告書には広島市内70カ所、17000人の子どもたちを調べたデータがある。
爆心地から1.3㎞にいた子どもは132人中50人が死亡、0.8㎞では560人全員死亡といったぐあいだ。
当日朝、子どもたちの多くは学徒動員で同じ場所でまとまって作業していた。
その子どもたちが原爆殺傷能力を確かめるためのサンプルとされたのだ。

オーターソンはこのデータに強い関心を示し、「原爆の医学的効果」として6冊の論文にまとめている。
その論文には、17000人の子どもたちのデータから得られた世界初の爆心地からの距離と死亡数を表すグラフ「死亡率曲線」が掲載されている。
これはアメリカ核戦略の礎となった。
ソ連の都市を全滅させるにはモスクワには6発、ウラジオストクには3発、スターリングラードには5発といったぐあいだ。

オーターソンの研究を引き継いだカリフォルニア大学のジェームズ・ヤマザキは次のように言う。

「死亡率曲線は革命的な発見だ。原爆の驚異的な殺傷能力を確認できたのだから。アメリカにとって極めて重要な軍事情報だった。まさに日本人の協力の“賜物”だ。貴重な情報を提供してくれたのだから」

日本が国の粋を集めて行った原爆調査に参加した元東京帝国大学調査団の山村秀夫は次のように証言した。

「調査はすべてアメリカのためであり、被爆者のために行っているという意識はなかった」

山村はアドレナリンテストという調査をしている。
被爆者にアドレナリンを注射し、その反応を調べるという治療と関係のない調査を毎日行った。

「今となってみたら、もっと他にいい方法があったのかもしれない。社会的状況が今と全然ちがう」

死んだ被爆者も調査の対象になった。
200人を超す解剖の結果が14冊の報告書にまとめられる。
その中に子どもの解剖記録が1冊ある。
長崎で被爆したオノダマサエ11歳だ。

マサエの甥になる小野田博行をNHKはさがしあて、彼は父(マサエの兄)が語ってくれたこととして次のような証言をする。

「救護所にいたおば(マサエ)が『兄ちゃん、家に連れて帰って」というので、父がおぶって連れ帰ろうとすると、救護所の医師が『将来のために妹を解剖にあずけてくれないか』と声をかけた。父はいちおう断るが、結局将来の被爆者のためにと思いおば(マサエ)の遺体を渡す。その後どうなったのかは家族に知らされていない」

マサエの解剖標本は報告書とともにアメリカに渡ったのだ。

1973年、研究が終了して解剖標本は日本に返還され、今は広島と長崎の大学に保管されている。
マサエの標本は長崎大学にあることがわかり、小野田はNHK取材班とともに訪れる。
5枚のプレパラート標本を前にして小野田は「これがおばさんですかね」とつぶやく。
こんな形でお会いするとは。
標本番号「249027」は被爆者のために活かされることはなかった。

2003年以後、各地で原爆症認定のための訴訟が起こされる。
その裁判の原告団を支えてきた齋藤紀医師は報告書の中に門田可宗の手記を見つける。

門田は原爆投下4日後に広島に入っている。
いわゆる入市被爆だ。

政府は原爆投下後の入市による放射能の影響はないとして入市被爆を認めてこなかった。
ところが門田の手記には被爆による症状とまったく同じ症状が書かれている。

齋藤は怒る。

「門田の報告書がありながら国が入市被爆の影響を認めてこなかったことに怒りを感じる」

その門田がまだ生存していることを知った齋藤は門田を訪ねる。
療養で寝たままの門田は自分が書いた手記の英語版を見ながら語る。

門田は山口の医専にもどった後、山口まで訪ねてきた都築教授に日記を書くように勧められた。
オーターソンが熱心に自分の手記を求めていることも知る。

手記の最後には「研究のためこの手記を書いた。研究に役立つなら幸せ」とある。
しかし自らの被爆体験を後世に残そうとした思いは届かなかった。

番組は次のような言葉で終わる。

尊い命と苦しみの記録が被爆者のために活かされることはなかった。

今晩あるNHKスペシャルも同じような主題になりそうだ。
ああ、本当にこの国は。


◆2011年夏 北アルプスシリーズ 22 槍ヶ岳から三俣蓮華岳

ライチョウ 2011.7.30撮影
今回の山行で2回目に出合ったライチョウだ。他の写真で見る限り5羽のヒナが確認できる。

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