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2012年7月7日土曜日

東日本大震災 「釜石の奇跡」

東日本大震災時に釜石の子どもたちがとった避難行動が「釜石の奇跡」といわれている。
テレビでも何度か紹介され、そのたびに感動した。

赤旗で昨日から「子どもたちに生き抜く力を」と題して片田敏孝氏(群馬大学大学院教授)の連載(週1)が始まった。
氏は釜石の防災教育を中心的に担った人だと理解している。
連載第1回は子どもたちの行動を具体的に紹介している。
著作権は気になるが引用する。

――ここから引用(赤旗2012.7.6付)

 釜石市の北部、鵜住居地区には、釜石東中学校と鵜住居小学校が並ぶように建っています。大地震が発生したとき、中学校では、子どもたちが部活動や課外活動に励んでいました。約5分に及ぶ激しい揺れの後、副校長先生が校内放送で避難を呼びかけようとしましたが、地震による停電のため音が流れませんでした。しかし、地震の最中から、校庭にいた中学生たちは、「津波が来るぞ、逃げろ!」と校舎に向かって大声で叫びながら校庭を駆け抜けていました。他の生徒もこれに続きました。

 隣接する鵜住居小学校の児童は校舎の3階に避難しようとしていましたが、日頃一緒に避難訓練をしていた中学生が避難する様子を見て、校舎を駆け下り、中学生の後に続きました。

 子どもたちは無事、予め避難先に指定していた老人介護施設「ございしょの里」に到着しました。しかし、施設脇の崖が崩れかけている様子や、津波が防波堤にあたって舞い上がる水しぶき、津波が家々を壊す土煙を見た中学生が、点呼をとっている先生に「ここじゃだめだ」と言ってその先の高台にある老人福祉施設へ避難することを進言しました。再度全員で避難する途上、中学生は小学生を励ましながらその手を取り、近隣の保育園から園児を連れて避難する保育士たちを手伝いました。

 中学生らが避難する様子をみた近隣住民も、つられて共に避難しました。無事全員が老人福祉施設に避難し終えたそのわずか30秒後、津波は老人福祉施設の目前まで迫り、そこで止まりました。ギリギリのところで全員助かったのです。

 釜石小学校は状況がより深刻で、学校はすでに放課になっており児童の多くは下校していました。しかし児童は、津波防災教育の教えに従い、先生もいない、仕事で両親もいないにもかかわらず、それぞれの判断で避難し、全校生徒184人が大津波から生き延びました。

 3年生のある児童は、ふとんをかぶって地震をやり過ごした後、親の帰りを待たずに一人で避難し、難を逃れました。この児童は、両親から「自分の身は自分で守れ。お父さんやお母さんのことを考えないで自分一人でも生き延びろ」と普段から言われていました。

 ある6年生と2年生の兄弟は、地震後自宅から逃げるのをためらい、避難が遅れてしまいました。逃げようと自宅のドアを開けたときは、道路に50センチくらいの津波が押し寄せてきていました。弟は「早く逃げよう」と兄に訴えましたが、兄は冷静でした。授業でかつて見た、50センチの津波の流れの中では人は立っていられないという実験映像を思い出し、「おとなだって50センチの津波で逃げられないのに、僕らが逃げられるわけがない」と言って、自宅の屋上に逃げ、建家の陰に隠れて津波をやり過ごしました。

引用ここまで――

この「釜石の奇跡」を思い出すたびに、石巻の大川小学校の悲劇が連想される。
この悲劇に対してはただ今のところ言葉を失うのみだ。


ヘラオオバコ 2012.6.29撮影
◆オオバコのなかまだが、その特徴的な花はオオバコとはかなりちがう。葉の形がへら形をしている。ヨーロッパ原産の帰化植物だが、江戸時代にはすでに日本に入っていたという。

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